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さて、藤原宮跡とタイトルにつけるのもタイトル詐欺みたいになってきたので、タイトルを変えました。
でも今回の記事に出てくる古墳等に行ったのは藤原宮跡と同じ日です。奈良に行くとどうしても詰め込みスケジュールになりがちです。
いや、ホントに奈良は行くべき場所が多い。多すぎる。

谷首たにくび古墳


で、谷首たにくび古墳です。
安倍文珠院からほど近い古墳です。

実はここに行く前に艸墓くさはか古墳という古墳にもよりたかったのですが、車を止められる場所がなくて諦めました。あとで調べてみると安倍文珠院の駐車場に車を置いたまま歩いていくのが良いようです。

艸墓くさはか古墳は石室内に石棺が残されていて一見の価値がある古墳のようでしたので残念です。いつかリベンジしたいなと思います。

艸墓くさはか古墳、それから谷首古墳は、安倍文珠院にあるふたつの古墳と同じ丘陵にある巨石古墳で、いずれも古代豪族の阿部氏の古墳ではないかといわれているそうです。


谷首古墳は道路から数段の階段を上がってすぐに行ける場所にありました。

谷首古墳
解説サインも設置されています。


以下、解説サインからの文字起こし

史跡 谷首古墳

昭和三十三年三月二十日指定

寺川の左岸、多武峰から北にのびる丘陵の北端、阿部丘陵の西辺に位置する。標高一〇〇m前後の地点にある方形墳で、谷汲古墳とも呼ばれている。墳丘の各辺は方位とほぼ一致し、規模は現状で、東西約三五m、南北約三八m、高さ約八・二mである。墳頂部には八幡神社の本殿と拝殿があり、墳丘西側は古墳築造当初の形状を保っていない。

埋葬施設は南に開口する両袖式の横穴式石室であるが、東側の袖が非常に短く、片袖式ともいいうる。石室の規模は玄室長約六m、幅約二・八m、高さ約四m、羨道長約七・八m、幅一・七m、高さ一・八mである。石室は花崗岩の巨石を用いて築かれており、奥壁二石、玄室天井石二石、羨道天井石四石からなる。

石室内は礫が敷かれており、凝灰岩の細片も見つかっているので、石室内には石棺がおさめられていたようである。古墳の作られた年代は、石舞台古墳や赤坂天王山古墳との比較から六世紀末葉から七世紀初頭頃と推定されている。

平成二年三月

奈良県教育委員会


入口上部の石が落ちてしまっています。
狭い入口

入口上部の石が斜めに落ちてしまっていて、かなり身を屈めないと入れない低さです。

というか入ることの難度よりも、これ入っても大丈夫なの?という不安感が大きいです。

入り口を過ぎれば羨道は高さもあり、しっかりしています。

勇気を出してなんとか入口をやり過ごします。

振り返ると石の落ちてる感がより分かります。
一瞬、出る時はあの石の上を通った方が楽なんじゃないかとか考えましたが、さらに崩落をさせてしまう危険性が高いだろうと考えなおしました。

斜めの天井石

こんな巨石が崩れてきたら確実に命はないだろうなあと、石室に入る度に思うのですが、羨道を進んで石室を目指す短い道のりにはワクワクします。

羨道
羨道

石室に到着。
やっと真っ直ぐに立てる、と思ったら、予想以上に天井が高い……。

石室

谷首古墳の石室は天井がものすごく高いです。
これまで行った古墳の中でもダントツ一位の高さです。

天井を見上げるとそこにはコウモリが

見上げた天井には、二羽?二匹?のコウモリがいました。冒険感マシマシです。

家の近所の河川敷では夕方になるとコウモリが飛んでたりしますので、コウモリを見るのは初めてではないのですが、石室にコウモリがいたのは初めてです。
襲われないかと軽くビビって身構えつつも、テンションも上がります。

天井のコウモリ
ズームしてみてもよく分かりませんね
照らされるコウモリ

天井は高いしコウモリはいるし、懐中電灯を上向けに照らせば雰囲気のある写真が撮れるのではないかと考えました。

書き忘れていましたが、僕は古墳に行くときには懐中電灯を装備しています。
古墳めぐりを始めた頃は何の準備もしていかなかったのでスマホのライト頼りでしたが、懐中電灯を持っていくようになって各段に便利になりました。

この写真を撮っている途中に、コウモリがもぞもぞと動きました。

そこで僕はものすごく迷惑なことをしてることに気付き慌てて光の向きを変えました。
寝てるところを、いきなりこんな光量で照らされたらストレス凄いですよね。ごめん、コウモリ。



八幡神社


谷首古墳のちょうど上が神社になっていました。

古墳の脇にある階段から上がっていくと、たぶんちょうど石室の上あたりに拝殿がありました。

神社の名前を示すものは見付けられなかったのですが、グーグルマップによると、「八幡神社」のようです。

拝殿
マスクをする狛犬
マスクをする狛犬
なんとか少しでも本殿が見れないかと撮影

本殿の祭神は誉田別尊ほんだわけのみこと(応神天皇)。

ネットで調べたところによると、境内社は、住吉神社、春日大社、水分神社(安倍神社)だそうです。
格子ごしに見えるのは本殿の左右にあるお社です。

こちらは本殿の囲いの左側にあった境内社。

住吉神社、春日大社、水分神社(安倍神社)のうちのどれかかも。

金毘羅大権現

本殿の囲いの右側には金毘羅大権現が祀られています。

金毘羅大権現

立派な神社でした。
それにしても、古墳の上や前に神社が建てられていることが多いように思います。
いわゆる鎮守ということなのでしょうけれど、豪族の祭祀にかかわってくるのではないかと思います。

古墳と神社

古墳と神社といえば、先日、大阪府寝屋川市の埋蔵文化財センターに行きました。ここは展示室は一部屋しかないので大きな施設ではないのですが、職員の方(館長さん?)の知識見識がとても凄いのです。

そこで、古墳の上とか近くとかに神社が建てられているケースが多いですよねと尋ねてみました。

一説によると、という前置きでしたが、職員さんはそれについて説明してくださいました。

元々、日本は自然を崇拝する信仰形態である。
だけど古墳というのは祖霊崇拝である。
なので、朝鮮から渡ってきた自然を祀るのとは違う祭祀の方法が採用された。
被葬者が眠る古墳を前にして行われたその祭祀が神社の起源ではないか。

という説があります。とのことでした。

山や巨石をご神体としていた自然崇拝アニミズムに対して、古墳というのがかなり個人的な信仰に感じられていたので、個人的にはなるほど~って納得のいく説明でした。


で、谷首古墳の次は、祖霊崇拝というか王族崇拝の最たる史跡ある天皇陵です。
この日は最後に舒明天皇陵じょめいてんのうりょうに向かったのでした。




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