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文章では文章を書きたい

今日は3月31日、1年度が終わる日ですがあまりそういうことは話題になりません。なんでだろう。大みそかはもうみんなが意識することなのに。今日もまあまあ大事な日ですよね。私は今大学を休学していますが、その期限が今日切れます。明日からは普通の大学生ってわけです。そう思ったら怖いですよ。あー-嫌になってきたな。そんな感じですが。このままどうでもいいことに文字が割かれてしまいそうなので、本題に。いや、ほーーーんとうに話したいことはたくさん出てきてしまうし、いつもの日記とかのトーンで書いていると永遠に終わらなそうなのでね。

今日がほぼ初投稿なわけですが、今回、note、つまりブログ的なものに挑戦しようとしたのには理由があります。1つだけ。
親友が、「エッセイとかやってみたら?」と言ったから。それだけであります。でもね、そういえば母も父も文字を書くことに関わる仕事をしてるし、私も気が付いたらスマホのメモやノートがいっぱいになっているほど文をねりねりするのが好きだったりします。だからこれがきっかけだったというだけで、結局私は文字を書きながら今までもこれからも生きていくのだと思います。
で、母と父の血を継いでいますねとかそういう話は置いておいて、せっかくなのでここで一度、「文章を書く」ということについてもう一度考えてみたいなと思いまして。はい。それが本題ですね。
色んな人に色んな文章との付き合いがあると思いますが、とりあえず私のことについて。

いや私最近気づいたことがあるんですけど、文章では文章を書きたいんです。
よくわかんないと思うんですけど、文章で状況描写をしたり、食べ物の食感を伝えたりしたくないんです。いや、それは言い過ぎというか。さすがにおいしいりんごを食べて「どんな感じとは言えないけどおいしい食感だ」とかは言いませんが、でもなんか、それは食べればいいじゃないですか。食感を伝えるのに食べさせる以上の効果を持つものはないですよね。
いや、分かりますよ。食レポでは、食べないで食べたくさせるのが大事ですよね。そういうことができる人はすごいなと思います。でも、私はそういうことができません。要はそういうことで、私は文章で文章出ない別のものを表現する能力には恵まれません。

それで、文章で表現できることは何なのか。
いや、そもそもこの話の中で最初に思ったことは、「会話文を作りたくない」ということなんです。脚本を書いたりすることは皆さま人生で一度はあるかと思いますが、そういう時にまっさらな紙に「」を重ねていくことに違和感があるんです。会話でしか表現できない「え、」と「え、、」の違いをどうしても無視するから、違和感がある。だから、私は日記のように感情を連ねたり、手紙を読むようなものにしたり、そういうことしか文章の中ではできないんじゃないかと思ったんです。
要は想像力が足りないわけです。「え、」と「え、、」の違いは想像で賄える部分が少なからずあると思いますが、そういうことが私はまあできないんですよねえ。だからなんでしょうが。

ここで話したいことは、単純に用途的な話です。りんごをかじる感覚は、りんごをかじらせれば与えられる。じゃあ言葉じゃないと与えられない感覚ってなんだろう。言葉が「~を表現する」じゃなくて、表現そのものが言葉である瞬間は何だろう。そういうことを追求していくような文章の書き方がしたいなと私は思っているわけです。というか、そういう書き方しかできません。
私がしようとする文章表現とは、文章を書くことで文章を書くことそのものについて考え直させるようなものです。

あー。大げさに書いてしまいました。かっこつけました。
でも、実際私は、こうやって書くことによって考えをまとめていて、新しい考えを生み出しています。文章を書く中で、考えが変わったりもする。
そういう、自分の通った痕跡を残しながら、私は文章によって自分を表します。そこで文章は生きたものになると思っています。
そういう、ゆらぎのある、生身の人間が感じられる文章が書きたいのです。私はね。

それは、文章を書く行為を、考えを書き出すメディアとしてだけでなく、考えを進めるための道具としても使うということですよね。
そうやって、めいっぱい「文章(を書くこと)らしさ」を出さないともったいないというか、それこそが文章を書くことだ、とか、思います。

はい。わたくしの主張は以上になります。
なるべくわかりやすく書いたつもりですが、自己満足で有名なので分かりにくいと思います。すみません。
noteは今後も月末更新の予定です。
色んなことを書こうと画策中です。よろしければよろしくね。ん?変な文。


㎰ トップのお写真お借りしました、かわいいです、ありがとうございます

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