よめないとかけないし、きけないといえない

 こんばんは。突然ですがnoteのやり方を変えてみようと思います。今までみたいにテーマを決めて、見やすいように整理して、一個の読み物として成立するような形だけでなく、思いついたこととか考えたことを気軽に書き残す場所にしたいと思います。それこそノートブックのように使ってみたい。なぜなら、文章を書いて発信することを始めてから、頭のモヤモヤがスッキリするような感覚がいっぱいあるから。それと、書きはじめてやっと思いつくこととか気づくことが沢山あって、自分にとっても発見ばかりで、良いことしかないのです。生活作文やら読書感想文やらを書くのにあんなにも苦悩していた少年が、今や書くことをこんなに求めているんだから、人生何があるか分からないですね。なので、見られるという意識を低めに設定して、荒々しく、短く、楽しく、思いつきで、書いてみます。将来的に本を出版したいという気持ちがここ一年くらいで沸々と湧いてきたし、その練習も兼ねて。「人に見られても良い日記」みたいな形になると思います。でも、読んでもらえたらもちろん嬉しいし、いいねを押してもらえたら泣いて喜びます。

 今日は、中国語を勉強しながら考えたことを書こうと思います。最近、僕の頭について離れないこのトピック。台湾に来て一年が経ち、一年前に想像していた自分の中国語力と、今現在の中国語力のギャップが大きくて、毎日まあまあ苦しんでいます。そこで、中国語(というか言語一般)が伸びる人と、伸びない人の違いを考えてみます。

 この前日本に一時帰国したときに、父親と二人きりでドライブをする機会がありました。そこで、本当に久しぶりに父親とゆっくり話をしたのですが、そこで印象に残る言葉を貰いました。「お前は良く本を読んで偉いと思う。俺なんかは30分と集中できない。」と、面と向かって(二人とも前を向いていだけれど)褒められてびっくりしたのですが、その後に「優れた文学者は必ず読書家で、読まない人間は書くことができない」と言うのです。「夏目漱石も、森鴎外も、みーんな読書家だった。瀬戸内寂聴って知ってるだろ?あの人も、中学生の時に図書館の本をみんな読破してしまったんだよ。」と。文学者に読書家が多いなんて、まあ当たり前だとは思うけれど、実の親(父は高等学校の国語教員でした)からこんなことを言われると、ちょっと関心してしまいました。まあ建築家も一人残らず建築を沢山知っているし、よっぽど奇異な天才でない限り、どんな表現者でも当てはまることだろうと思います。さらに父親は、「いろんな人の文章を読んで、いろんな表現を知って、その取捨選択の上に、やっと自分の文体が確立されるのであって、最初から書こうと思っても、ただ下手な文章ができるだけ」と滔々と語っていました。我が親父ながらなかなか真理をついていると思います。

 この長めの小話と、中国語の勉強の何が関係してくるかというと、今の、読んでいるから書くことができるという関係が、何も文学の世界だけに留まる話ではないのではないかと、ハッとしたのです。語学も、どんな簡単な文章も文句も、読んだことがないと書けないし、聞いたことがないと言えない。つまりそれらは、セットじゃないかと感じます。中学校からずっとやらされてきた英語の授業も、なんとなくこの4種類に分類して勉強していた気がするし、あながち間違いじゃない気もします。
 そこで、この四つの能力の関係を概念図にしてみました(図1)。読むと書く、聞くと言うが対になって影響を与えあっていて、それらが直行してるイメージです。

 目の力、耳の力と書いたけれど、目が良い人は「読む」と「書く」の能力が、耳が良い人は「聞く」と「言う」の能力が高いのではないかと思います。そもそも目がないと読めない≒書けないし、耳がないと聞けない≒言えないからです。
 あと、ここでいう目が・耳が良いは、単に視力・聴力の話ではなくて、細かな違いまで見えるか・聞けるかの話です。自分は昔から「目型」の人間で、見て違いを見つけるのは得意なんだけれど、聞いて違いを見つけるのは苦手でした。イオンとかに行くと、エスカレーターで流れているアナウンスの「手すりの外側へ顔や手などを出すと危険です」という部分が、20歳くらいになるまで、「青焼けなどを」に聞こえていました。意味が全然通っていないから、おかしいことには気づいていたんですが、ふと友達に聞いてみたら、おかしいのは自分だけだったと判明したという過去があります。それ以外にも、普通の人が聞き取れることが聞き取れないことが多かったし、聞き取れないだけでなく、聞き取っても出て行ってしまうことが多かったです。例えば、小学生のときに朝の会で「今日はお昼休みの後に全校集会があるので、お昼ご飯後に体育館に移動してくださいね」みたいなことを先生に言われても、その日のお昼には忘れていて、みんなが教室をぞろぞろ移動始めるのに戸惑い、「なんで知らないの?」という顔をよくされたものです。「集中してよく聞いてなさい!」と何度か叱られたこともあるけれど、僕としては結構真面目に聞いていたので、理不尽な思いをしました(メモを取るほどのことでもないし)。聞いていても、頭に定着しないんだろうと思います。テストの点はそこそこよかったし、自分のことを頭が悪いとは思っていなかったのでとても謎だったのだけれど、今思うと耳から入る情報の処理能力が低かったんだと思います。
 今勉強で苦労しているのも、やっぱり聞き取りと発音で、自分の苦手がそのまんま現れています。中国語においては発音がすごく大事なので、とても大変。なので、生まれてこのかたずっとほったらかしにしてた、耳の能力を育てるチャンスだと思って、必死に育てている毎日です。沢山音を聞かせて、細かな違いに気づけるようになりたいです。

 さっきの話に戻ります。言語能力を可視化する数値の一つとして、TOEICがあります。そこで、webページを見に行ってみました。すると、Listening & Reading Testと、Speaking & Writing Testの2つに分けられています。これはどうやらインプットのテストと、アウトプットのテストに分類されているみたいです。そうか、ただ目と耳で分類するだけじゃなく、もう一つの軸が生まれそうだ、と気づきました。
 そこで、先ほどの図を45度傾けて、真ん中に二つの矢印を配置してみます。縦方向の矢印は、TOEICを参照してインプットとアウトプットに。横方向の矢印は、(必死に考えて無理やり絞り出した結果)体の正面を用いるか、側面を用いるかという分類ができそうです。
 第一象限から第四象限にかけて、聞く、読む、言う、書く(まとめて四つの能力と呼ぶことにします)が配置されました(図2)。ついでに、4つの行為それぞれに、体の中から対応する器官を配置してみました。側面からインプットする「耳」、正面からインプットする「目」、正面からアウトプットする「口」、側面からアウトプットする「手」の4つに分類できました。なんかちょっとらしくなってきましたね。

 さらに、4つの行為を平仮名にひらいてみると、さらに視点が広がりそうです。それぞれ多数の漢字が存在し、漢字によって少し意味合いが変わります。例えば「きく」では、聞くの他にも、聴く、訊く、尋くなど、「聞く」に比べて、より深く、詳しく、細かく聴いているニュアンスが生まれます。「きく」ことの精度(レベル)により、当てる漢字が変わるのではないかという仮説を立てます。そこで、先に行くほどより深く、より難しくなることを表現するために、先細りの形で、グラデーションをつけて書いてみました(図3)。

 これが、最近考えている一つ目の概念図です。反対の概念は鏡のように斥力が働いて、原点から離れていく力が同時に、もう一方の能力を伸ばすことに繋がるのではないかと思います。「きく」ができないと「いう」ができないし、「いう」ことをしないと、「きく」が伸びていかない、という想像です。また、根元が太くなっているのは、土台(原点に近い場所)がしっかりしていないと、積み上げることができないことを表現しています。例えば、挨拶の仕方も知らずに、ビジネスで使う言語は学ぶことはすごく難しいです。
 この図で言うと、僕の中国語力はまだ、真ん中の白いあたりにとどまっていそうです。人の話を聴いて、詩を詠んで、会議が捗るような意見を云って、自由に言葉を描き綴れるのが、目標です。

 そして語学力には、この四つの能力だけでなく、語彙力と文法力も必要です。これは知識量とも言えるかもしれないですね。これを、先ほどまでのXYの2次元座標と直行するように、Z軸に立ててみます(図4)。残り(Z軸)の二つは、より脳に近い部分に関係がありそうです。対応する器官が思いつかないので、引き出しの量と、組み立てる力としてみました。脳科学に詳しい人だったら、海綿体とか、言語中枢とかいう単語が登場するのでしょうか。(インプット/アウトプットと、体の正面/側面という分類は、ややこしくなるので一度消しました。)
 これが、最近考えている二つ目の概念図です。この図にある八面体の体積が語学力と言えるのではないかと思っています。

 これは、正八面体であればいいわけでなく、言語によって理想的な形が異なると思います。例えば中国語においては、聞き取り(きく)と発音(いう)が重要であり、文法(日本語に比べるとはるかに優しい)や語彙(ヨーロッパ諸語のように単語の変化がほとんどない)における難易度(深み)が少ないです。なので図4でいうと、X軸方向に長く扁平な形をしている方が、同じ体積であったとしても中国語力が高いと評価されると思います。日本語においては、Z軸方向に伸び(文法がアホみたいに難しいらしい)、英語では、Y軸方向が縮む(書き言葉でa-zの26文字しか使わない)と思います。

 また、言語学習においては、自分が得意な軸を理解することも重要だと思います。冒頭に書いたように、自分はX軸(きく・いう)が弱く、Y軸(よむ・かく)が強いタイプです。つまり、中国語に必要な部分と直行してしまっており、それが今苦労している一つの理由だと思うのです。
 自分がまだまだなのに、語学をいかに学ぶかを講釈たれるなんて烏滸がましいのですが、この図がある程度正しいとするのなら、「①自分が学ぶ言語の特徴と、②自分の特性と、③伸ばしたい部分の正しい学び方、の三つを正しく理解して実践することが、早く上達する近道」だという説が成り立ちます。

 さて、やっとこのモデルを自分のために使おうと思います。以上の三つを踏まえて、いくつか方法を考えてみました。

1.目の力を耳に繋げる

 先ほどの図では表現しなかったけれど、直行しているX軸、Y軸、Z軸は、それぞれ関係しているはずです。図3でいうと、「よむ」力をつけるに連れて、横にある「きく」力も、「いう」力も、それに引っ張られるように伸びていくのではないでしょうか。例えば、小説で読んだ表現が、翌日友達との会話で出てきたとか、専門書で学んだ単語を、必要なときに自然に使うことができたとか。つまり何が言いたいかというと、自分の得意な「目(よむ)と手(かく)の力」を生かして、他のニつの能力を引っぱっていくことができる気がするのです。僕らの器官は体と脳を通して繋がっているから、影響を与えあうはずです。
 具体的に言うと、今まで楽しく続けられた、中文字幕を見ながら映画を見る方法(目→耳)と、最近始めて成長を実感している、ディクテーション(音声だけから聞き取り→字幕の書き取り)をすること(耳→手)、という方法は自分に向いていると思います。逆に言うと、耳しか使っていない、ポッドキャストをただ聞くことなど、あまり伸びていない気がしたのに納得がいきます。

2.耳を鍛える

 二つ目は、そもそも苦手な耳(きく)を鍛える方法。才能があるかないかもあると思いますが、ある程度までなら、経験の差で埋められる部分も多いと思います。ネイティブのほとんどが「きく」「いう」が完璧なように、環境でどうにかなる部分です。そのために、聞くものを選り好みしないことが重要だと考えます。ネイティブ並みに第二言語を喋れる人の話を聞くと、よく、テレビをつけっぱなしにしていたと聞きます。これは、自分が好きなものを選択せず、なんでもかんでも取り込む点で、とても理に適っている気がします。僕が今まで時間をかけていた、ポッドキャストを聞くやり方だと、聞きやすい喋り方とか、知っているトピックとか、好きな声ばかり聴いてしまい、いつまでたっても耳が成長しないです。いろんな話者の話し方(音の高低、スピード、くだけ方)を聞いて、自分の耳を拡張していきたいです。

3.バランスよく学ぶ

 1で言ったことと少し繋がるけれど、図3で表現したように、一つの方向に対して、やればやるほど難しくなるし、基礎がないと積み上がっていかないと思います。なので、どこか一つの軸にこだわらず、他の方向から引っ張りあげるような、螺旋を描く学習方法が良いと思います。ゆらゆらと、行き詰まったら気軽に方法を変えて、気づけば積み上がっていた、というくらい気軽に楽しく学びたいです。あと、先ほどの③正しい学び方については、人に学ぶことがすごく大事だと最近すごく思います。Youtubeで幾らでもプロ(に近いレベル)の講座が見られるって、かなり言語学習しやすい時代じゃないでしょうか。それも、他者の視点を取り入れることが、バランスをとることに繋がるような気がします。


 以上、最近言語学習について思っていることでした。冒頭で気軽にやるといいながら、楽しくなって図まで作ってしまいました。この、対立する二項を挙げながらそれを直行させて整理していくのは、デカルトさんが始めたことなんだろうか。こういう図を作ると、なんか分かった気がしちゃって危険な部分もあるけれど、物事を体系的に理解する為には有効な手段だと思います。これは、いろんな物事に敷衍できる強みがあります。
 先ほどの危険な部分とはなにかというと、図4で言えば、6個以外の能力が見えなくなってしまうことです。非言語能力と言われるジェスチャーや表情、話題を見つける能力や、積極的に話しかける力など、言語能力は多岐に亘るはずです。なので、あまり硬くならずに、柳のように学んでいきたいです。
 皆様のコメントと批判をお待ちしています。


231218追記
 偉大なる建築家、吉阪隆正の本を読んでいて面白い図を見つけ、これだ!と思ったのでメモ。両図とも、DISCONT:不連続統一体(1998、丸善出版、編:DISCONT事務局「アルキテクト」)より。

左:吉阪隆正作の図、右:筆者が真似して書いた図
左:生命のマンダラ(吉阪隆正作)、右:筆者が真似して書いた図

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