最近配信でみた面白かった映画とか諸々の短評

映画館で見れなかった映画がアマプラで来てたので早速視聴。

わたしにとって、北アイルランド問題というのは、ケンローチの『麦の穂を揺らす風』だったり(ラストの処刑シーンがあまりにあっさり描かれすぎて逆に怖かった)、あるいは高村薫の『リヴィエラを撃て』といった創作物を通して知った。どちらもすごい作品だと思う。とまれ、そこには紛争に身を投じ、消えていった人々の姿が描かれている。

一方ケネス・ブラナーがとりあげたのは、そうした血生臭い紛争の狭間にいるかのような、そうした戦いをかろうじて逃げのびた人たちの、つつましくも悲しい人生だった。『リヴィエラ』のジャック・モーガンみたいにドラグノフ一丁で王党派の弁護士一家を皆殺しにする存在なんて、それこそアイアンマンやスーパーマン並みにレアな存在に違いなく、その大半はかような暴力や政治が生み出す状況の前に右往左往せざるを得ない市井の人たちだった、に違いにない。

一部の暴力的な登場人物を除き、そうした人々は愛しいものとして登場するのだが、私は特に、兎に角じいちゃんとばあちゃんが好きだ。ブラナーにとって彼らは北アイルランドという土地でしか生きられなかった人たちの象徴に違いなく(ケネスブラナーは9歳でイングランドに移住している)、そこには愛情と罪悪感がないまぜになった視線が注がれる。しかし、お茶目で口八丁のじいちゃんと、結構現実主義で冷静なばあちゃんの漫才で笑ってしまう。そして、ラストのばあちゃんのショットは美しくてゾッとしてしまう。故郷に置き去りにしてしまった人間のまなざしからは、決して逃れることはできない。


ジェフリー・ダーマーに関する映像作品に触れたのは、これが初めてだった。そもそもダーマーその人の名前は知ってたけど、詳しい話は全然という感じだった。まぁ別に調べるつもりもなかったし。多分、これ以外のダーマー作品に触れることもないだろうなと思う。それほど出来がよかったというのもあるし、ある意味『ダーマー』はその決定稿だからだ。

身の毛もよだつ殺人者は何故生まれるのだろうか。彼をとりまく環境なのか、親の愛情不足なのか、それとも性的指向なのか。その責任を問うこと自体、差別を生み出すことに他ならないと、最終話の裁判長のありがたい話で示される訳で、このドラマは徹頭徹尾その姿勢を貫いている。

理由を求める。それ自体は何のおかしい点もない。だが、見当違いの追求は時にありもしない被害妄想を生んだりする。

たとえばダーマーの親は、彼に対して愛情不足だったのかもしれない。ケアが必要な時期に、両親ともに彼をほっぽりだしていたのは事実である。そこに理由を求めるのはたやすい。しかし、その理屈をひっくり返せば、親の愛情を注がれなかった人、片親だったり両親がいない子供が皆、彼のような殺人を犯すのだろうか。

そんな訳がない。

これは彼に責任がないという訳でなくて、完璧に悪いのはダーマーその人なのである。責任は彼にあった。彼の差別意識、身勝手さによって罪もない人たちは無残に殺されたのである。

このドラマは、フラットな視線を保つことを視聴する人々に呼びかける一方、作中でも持て囃され、漫画の題材にされたり神格化されたジェフリーダーマーを、ただのちっぽけで平凡な人間に引きずり落とす為の舞台なのである。彼自身特別な存在でもなんでもなかった。だからこそ人って怖いよねというも話にもなるかもしれないが。

そして、彼が住んでいたアパート跡地に建てられなかった公園と石碑の代わりとして、このドラマはネットに永遠に残り続ける。その非道で身勝手な犯罪を、私達が忘れぬための奇妙でグロテスクな記念碑として。

しかし私がこのドラマをみて腹が立ってしまったのは、保身に走るミルウォーキー警察のずさんさ無能さもさることながら、みすみすダーマーを見逃して停職をくらった警官2名が何故か復職し、あろうことか昇進したシーン。そして被害者の遺族にどこぞの警察官がいやがらせの電話をかけたりするシーン。これって史実なんですかね!? まじモニターの前で怒鳴ってしまったんだけど。


『もう終わりにしよう』が公開されたのは少し前で、最近になって漸く見た。

チャーリーカウフマンといえば、彼が脚本を書いた『マルコヴィッチの穴』くらいしか見たことがないが、彼がかかわってるなら絶対変な映画だろうなと思った。その予想はまぁ当たった。これは大変、変てこな映画です。

この映画を紹介するのは難しい。というのは、私としてはお話の構造を知った上で見た方が絶対面白いと思うのだ。しかし、それはこの映画の謎解きの楽しみをそぐことにもなるし……ということで中々話しづらい作品でもある。

ただとりあえず、世の弱者男性をこれ以上いじめるのはやめてくれろ……と思った。それほどこの映画は直球に、そうした男が抱きがちな願望というか妄想を忠実に映像化しているからだ。この映画はある意味鏡のようなもので、ただでさえ苦しんでる人たちに問答無用で己の姿を突き付ける訳です。いや残酷だねぇ。

社会的に成功したい。そうして誰からも認められ、尊敬されたい。ついでいい女(まぁ、男でもいいよね)をゲットしたい。で、自慢したい。世の男性の望みって、ていどこそあれ大体こんなものじゃないかと思う。特にそれを拗らせているのが、世にいう弱者男性というやつではないか。たとえば非モテと称してる人々が、自分の魅力や努力不足を棚に上げて「おれたちにも平等に女性を提供しろ」などと度を越えたイタい要求を宣うのを見にしたりする。ばかいってんじゃねーよと普通の感覚をもってる人なら思うだろう。ただ、冗談で言ってる訳でもなさそうで、本気で苦しんでそういう事を言ってるらしいのである。

で、『もう終わりにしよう』だけれども、それって当人からすれば切実なものに違いないけど、それって結局傍から見たらはばかばかしいの一言につきるのでは、というのをかなり婉曲かつ難解な表現で指摘しているようにも思わえるのだ。

で、ならいっそ、そういういわゆる男らしさみたいな呪縛から逃れてみてもいいんじゃない、とある種のカウンセリングというか、アクティビティ的な要素も本作にはあったりする(なんとなく、あの箱庭療法を彷彿とさせた)。ジェシー・プレモンスが演ずる本作の主役はその価値観から抜け出せないまま死んでしまったと示唆する描写もあってそこは悲しい。しかしそういうセンチメンタルな悲劇は、逆説的に「俺はこうなってはいけない」と見ている人に思わせる力があるのではないだろうか。

ちなみにこんな偉そうに書いてる私なのだが、今年の春に退職して30半ばにして現在無職、貯金で食いつないでいる存在なので世の中のカテゴリー的には間違いなく「弱者男性」だったりする。私はあまり「弱者」などと意識してないけど、世間ではそういうらしいよ。

というのも、私自身ちっとも現在の境遇を苦にしてないので、けっこうへらへらして暮らしている。むしろ今の状況が続けばいいなーなどと思っている始末なのだ。いちおう昔は彼女がいたり、女友達みたいなのがわたくしみたいな者にもいた時期もあったのだが、いないならそれで別に困ってない自分がいる。つまりどうも結婚願望が薄い。マッチングアプリも大学時代の遊び好きの知り合いに教わってインストールしたが、結局ログインせずにそのままになってる。私はそんな暇があったら映画をみたり本を読んだりしてたいのだ。ゲームをやって勝った負けたで笑ったり怒ってしたい。それで生活が満ちているのだから不思議だ。

そんな私でも本作が言わんとするメッセージは、なかなかきつかったで御座る、と申し上げておく。

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