2021.6 緊急事態宣言下に見た映画時評『ファーザー』『Mr.ノーバディ』『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

2021年4月25日、新型コロナウィルスの拡大にともない、政府は3度目の緊急事態宣言を発令した。映画館への休業要請、飲食店での酒類の提供制限など、国民は今まで以上の自粛を強いられることとなったのは、記憶に新しいところであろう。そうした国民の努力の甲斐もあり、コロナ第4波の勢いは徐々におさまりつつあるようだ。そしてきたる6月20日、10都道府県に出されている緊急事態宣言について沖縄を除く9都道府県で解除された。

まぁ6月に入り映画館に対する理不尽としかいえない要請とやらもいつの間にか解除されていた。それまで政府の指示に唯々諾々と従いざるを得なかった都内の映画館は、ここで営業を再開した。延期に次ぐ延期の割りを食っていた作品も順次公開されている。その中から3作品を見れたのでここで簡単に書いてみた。

■認知症は本当に怖い『ファーザー』

アンソニー・ホプキンスが主演をとつとめ、今年度のアカデミー賞でみごとオスカーを勝ちとってみせた劇映画の佳作『ファーザー』は、実に特異なシチュエーションを描き出したホラーだ。

ホプキンス演じる「アンソニー」をとりまく世界は、徐々に混沌を極め、崩壊し、しだいに彼を恐怖に陥れる。全く話の噛み合わない彼の娘との会話、食い違う証言はまだ序の口だ。気ままな一人暮らしのはずなのに、その趣味のいいアパートの部屋の真ん中に見ず知らずの人物が座っていて「ここにはずっと前から住んでいる」などと言い出すではないか。なんだこいつ頭のおかしい不審者か? と観客にそう思わせながらも、劇中のアンソニーはその言い分を受け入れ、どうにかその状況を受け入れようとする。

こうした「信頼のできない語り手」を配置するやり方は、決して珍しいものではない。たとえばクリストファー・ノーラン監督『メメント』においても、記憶の保持がままならない人物の主観を通し、とある滑稽な復讐劇の顛末が語られる。怪我の後遺症により10分ごとに記憶がリセットされてしまう主人公演ずるガイ・ピアーズの肉体には、多くのタトゥーが施されている。彼にそうした障碍を負わせ、愛する家族を殺害した強盗犯の手がかりを彼は自らの皮膚の上に刻印しているのだ。記憶を失うたびにそれ彼はそのタトゥーから自分の置かれている状況や捜査の進捗を解読し、また復讐に赴く、という仕掛けだ。

『メメント』は上記のごとく異質なクライム映画で、あまりに現実離れした寓話的な作品だった。翻って『ファーザー』はいま我々が直面すべき問題を、これでもかとばかり私達に直球に投げかける。アルツハイマーに侵され、徐々に記憶の均衡、さらにはそのもの記憶そのものが失われる恐怖を描いたスリラーだからである。殺人鬼が暴れまわる下手なB級映画よりよほど怖い。『メメント』の狂言回しのごとく狂った復讐者ではなく、罪もない平凡な男が襲われる理不尽な仕打ち。の目線からそれを描くことで、観客たる我々にも体験させてくれる。極めて稀有な作品だ。

自分自身の記憶が消失していく恐怖の中、それでもアンソニーが残された知性を振り絞り、自身の置かれた絶望的な状況を「あるもの」に喩えて表現する。その言葉に私は胸を打たれた。その表現は、短編小説の名手O・ヘンリが手掛けたとある一編を彷彿とさせる。認知症に対する的確な認識に基づいた表現であり、また儚くも美しい言葉だ。恐ろしい映画には違いないが、やはり心を揺さぶられたという意味では傑作としか言いようがない。

■テストステロン出まくり映画『Mr.ノーバディ』


本作を手掛けたイリア・ナイシュラー監督の記念すべき第1作『ハードコア』は、映画界に革命をもたらしたと言っても過言ではなかった。全編FPSゲームふうの主観映像のみで、しかも約90分の長編アクション映画を作った人類初のクリエーターだからだ。そんな狂ったこと、スピルバーグもルーカスに大金積んで頼んだって実現出来やしない。

それゆえナイシュラー監督はこの業界(FPS映画)のホープとして、次作もあの大傑作『ハードコア』を上回るような主観映像映画を繰り出してくれる、と勝手に私は期待していた。だが『Mr.ノーバディ』において彼はその得意ジャンルを敢えて封印し、彼が言うところの「トラディショナルな映画」を世に送り出した。

主演は『ブレイキングバッド』のひょうきん担当ソウル・グッドマンでお馴染みのボブ・オデンカーク。序盤こそ冴えないおじさんだが、徐々に闘争本能をむき出しにして暴れまくる「元CIAの殺し屋」を演じる。

あらすじはそんな感じの、平凡なバイオレンス映画だ。特筆すべき点はナイシュラー監督のもう一つのお家芸、暴力描写にある。色々あって、フラストレーションたまりまくりんぐなオデンカークはバスの中でチンピラ5人あいてに大立ち回りを披露。自身も半死半生になりながらも全員半殺しに叩きのめして病院送りにする。ところが、念入りにタコ殴りにしたキッズの1人(ストローを用いたとどめの一撃は笑ってしまう)が、あろうことか大物マフィアの身内だったからさぁ大変。そこから血で血を洗う抗争に発展していく。

自分の家族を守るため、という大義名分はあるもののオデンカークはどうみてもマフィア殺しを楽しんでいる。そのキャラ造形も前半はどこか抑圧的、それとは裏腹に後半からクライマックスにかけて男性ホルモン出まくるキモいおっさんである。この手の男を過剰な暴力に駆り立てるのは、自分の強さを周囲(この映画の場合は家族)に証明したいが為だ。つまり父権主義的な動機に他ならない。今の時代、毛嫌いする人や受け付けない人はいるだろう。でもよくよく考えたら、『ハードコア』もプロットだけ切り抜いたらだいたいそんな話で、男根主義的な暑苦しさを感じる。テストステロンに振り回され、なんだかんだ言って活躍する男の映画だ。

常人では思いもよらぬ対人地雷の有効活用法など、部分的には見どころ満載のアクションだ。だがトータルで評価するならやるならもうすこし過激でも良かったような気もする。

■アニメーションなりのリアリズムをとことん追求した『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

アニメーション監督は各々が違った強みを持っていて、ひとくくりにされがちなアニメというジャンルの中には、実はある種の多様性がある。たとえば絵がうまいレイアウトがうまい、編集が巧み・・・・・・とか枚挙に暇はない。その中で村瀬修功監督はとりわけ抜群な演出力を持つ、まさに演出界の範馬勇次郎である。

アニメーションとは端的に言えば動く絵、なのでそこに奥行きをもたせることは普通は不可能・・・・・・な筈なのだが村瀬監督のパワーをもってすれば恰も三次元的な奥行きを覚えてしまう。これは錯覚なのだが、まるで絵の中の世界に観客自身が入り込んだかのような不思議な体験をできる。逆に実写映画では味わえない新鮮さを味わうことが可能だ。たとえば冒頭のハイジャックシーンでハサウェイが銃を手にテロリストが籠城するコックピットに突入するシーン、また不法移民狩りのMSに備え付けられた銃座から無差別発砲するシーンなど、コンピュータグラフィックと手書きのハイブリットが功を奏している。それはMS戦でも当然活かされていて、大した迫力を呈している。前作『虐殺器官』から踏襲された演出論だが、さらに洗練されていると言っても過言ではなかろう。

また、MS以外にあまりSFをしていないのが良い。登場人物が着ている衣服や食べ物など(ギギ・アンダルシアの童貞を殺害しかねないドレスは除く)、私達の世界と共通しているせいもあってか、宇宙世紀のはずなのに、まるで我々の社会と地続きのような奇妙なリアリズムを生み出している。SFで嘘は一つであるべき、という格言がある。本作はそのドグマを守り抜いていてうまいことやっている。

余計なものがないという意味では、もうひとつ重要な要素がある。ふつうガンダムの主人公といったら、どんな屈折したやつでもだいたいは共感できる熱いものを持っている。誰かの役に立ちたい、自分が出来ることをやって民草を守りたいという気持ちがあるものだ。アムロしかり、カミーユしかり。しかしハサウェイ・ノア君にはそういう熱さが今のところ見受けられない。ともすればそういう熱さは、クリエーターの自意識の裏写しのようになってしまい作品を台無しにしかねないので『閃光のハサウェイ』に限っては正解なのかもしれない。彼は飄々としておきながら、その裏になにかとんでもない狂気を宿している。オープニングでジャックされるシャトルに彼が乗っていた理由も、これからテロでぶち殺す奴ら(彼が唾棄するところの腐敗した政府高官)の面を拝んでおきたかったという到底理解不能で、非合理的なもの。テロ組織マフティーの頭領としてはそれくらいあたおかじゃないと勤まらないのかもしれない。その狂気はいずこへ向かうのか。いずれにせよ次回作が非常に楽しみな一本である。


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