戦場に跋扈する、魅力的な「人でなし」 映画『ドンバス』批評

2022年2月末から突如始まったウクライナ‐ロシア侵攻は、改めて戦争の残虐さというものを全世界に知らしめた。インターネットを介した近代戦の恩寵によって、ロシア側がウクライナにふるった残虐な戦争犯罪が詳らかになっている。彼らは国際法を踏みにじり、ウクライナの一般市民の居住区にイスカンダルミサイルを撃ち込み、彼らが行く行く先でウクライナ人の資産を簒奪し、数多の女性に強姦し、その上にナチスドイツの第101警察予備大隊はだしのジェノサイドを働いた。本件に関わった下士官から一介の兵士に至るまで、どのような弁解がされ、救済があるだろうか。「知らず知らずのうちに、プーチンの言いなりになって戦場に送り込まれていた」という彼らの言い分がどのていど国際法廷で通用するだろうか。改めて我らのモラルと正義、そして真実を見極める目が試されるであろう。

話を現代に戻そう。ウクライナのドンバス地方は現在に至るまで激戦地区であり、戦闘の規模はかのマウリポリに次ぐものと言われるほど過酷とされている。

現在公開中の映画『ドンバス』なのだが、ウクライナ侵攻により以前に撮影されたと聞いて誰もが腰を抜かすことは間違いない。私自身、戦争がもたらす悲劇の普遍性を描き出している点と、なによりロズニツァ自身の先見性に驚愕した一人である。ウクライナ東部のドンバス地方で蜂起しその地を占領した分離派、それと対立するウクライナ正規軍、そして戦火の中取り残された現地市民らが織りなす「内戦」の様相を、特定の主人公や狂言回しが存在しない群像劇的な手法で描き出す。作中全13のエピソードは有機的に繋がっており、ラスト13番目のお話で全ての因果が回収された瞬間におぞましい殺戮がおきる。この映画をみていると、突然始まったように見えるウクライナ侵攻は、こうした内戦から既に始まっていたのだとわかる。

『ドンバス』を手掛けたセルゲイ・ロズニツァ監督はウクライナ出身、ロシアの大学で映画を学んだ後、数々の傑作を世に放つ気鋭の作家である……とは言うもののピンとこない方々が大半であろう。日本で公開されたのは昨年「群衆三部作」として公開されたドキュメンタリーのみだ。かく言う私もロズニツァ監督の作品に触れたのは「群衆」のみだ。世界的な評価に対して、我が国の知名度はまだ低いと言わざるを得ない。余談だが「群衆」を見た際の私の所感は下記の記事にまとめている。彼のドキュメンタリーからは、声高ではないものの痛烈な社会への批判精神、そしてそれに相反するような深い諦観のようなものが感じられた。『群衆』で垣間見えた作家像はそのようなものだが、さてその劇映画はいかなる出来だろうか。

本作は期待を裏切らず冒頭から魅せてくれる。中継車に牽引されたコンテナの中、そこはせまい化粧室になっている。メイク中の俳優らが四方山話で盛り上がっている。突然そこに軍服を着た女性が入ってきて、彼らを外に連れ出す。俳優の一団は促されて走るその道すがら、カラシニコフを構えた兵士がところどころに立ち睨みを利かせている。彼らが裏路地に入ったとき突然爆発音が起こり、身をかがめながら到着した現場には破壊されたバス、そして道路に死体が転がっている。俳優たちはそれを背後に、テレビクルーが向けるカメラに向かって、ウクライナ軍の残酷さを訴え始める。まるで偶然そこに通りかかった悲劇の一般市民であるかのように……。

でっちあげのフェイクニュースは実際にこのようにして生まれる……か否かはさておいてこのシーン、こういうこと言ったら罰当たりなのかもしれないが……無茶苦茶格好良いのだ。現場に突撃する有象無象の連中(着飾ってごてごてのメイクの俳優やテレビクルー、彼らに随伴する兵士)の背中を食らいつくかのようにアクションカムは動き、爆風で揺れ、そして彼らの「仕事」もつぶさに映し出す。むろん国内外にデマを待ち散らす連中であり、どちらかといえばかなり害悪な存在に他ならないはずなのに。詐欺の犯罪集団の仕事現場をまじかで見ているような臨場感が伴う。そして彼らの仕事をまじかで見ているが故に、我々視聴者がある種の共犯性や罪悪感を覚えるほどスタイリッシュな映像に仕上がっている。

『ドンバス』の特筆に値する点、戦争で傷ついた人々よりも、むしろ加害する者側に意識を向けている点だ。上記フェイクニュース以降のエピソードにもそれは顕著であり、その辺をうろうろしている分離派兵やウクライナ正規軍は言うに及ばず、フェイクニュースの撮影や、要人のウクライナ側への脱出に暗躍する謎の手配氏のようなおっさん、一般市民から資産や食料を「委託」などと称して徴収する分離派の軍人、聖職者に政教分離を説く軍のトップ、と枚挙にいとまがない。いつ砲弾が飛んできて死ぬかもわからない内戦という異界のなか、口八丁手八丁で跋扈し、相手の優位に立とうマウンティングを行うマフィア達から、名状しがたい魅力が匂いたつのを誰が否定できようか。モラルも何もかもいかれた世界で、しぶとく、しかも自分が有利に立ち回ろうと這いずり回る人間のみみっちくも強靭なる生存本能を、ロズニツァは優れた演出によって残酷までに象り、浮かび上がらせる。ロズニツァは感傷的に戦場の悲劇を描こうとはしていない、そもそもそのようなセンチメンタルな思惟に左右されない作家などではない。それは一作でも彼の作品を見たことのある者なら百も承知の筈だ。彼は実在の戦場にも勿論いるであろう浅ましく、飢えていて、しかしタフで、まるでハードボイルド小説の主人公みたいな乾ききった人でなしを描こうとしている。凡庸な作家にありがちな反戦的なメッセージなどうっちゃって、それも極めて魅力的なやり方で。笑いと恐怖は紙一重と言ったものだ。

ここでロズニツァはユーモアという手段をとった。死体が転がる修羅場だろうと銃弾が飛び交う鉄火場だろうと笑いもとれない人間が、魅力的に思われようか、自分以外の人間を動かして金儲けに勤しめようか、いやそうはなるまい。私腹をため込んだビジネスマンから資金を頂戴するために遣り込める恐るべき手口しかり(彼はビジネスマンが躊躇するたびにその軍資金の値段を釣り上げていく!)。またバスの乗員からハムを徴収するやり口は、まさかのアメトムチを織り交ぜた泣き落とし作戦ときている。まるで北野武の映画で、罪のない人にいいがかりやダルがらみをして都合よく色々せしめるヤクザや刑事をみているようだ。ここまでくればブラックユーモアの極致であろう。

そうした乾ききった人間性を描き出すことに徹底された『ドンバス』であるが、その一方、「現実の戦争の悲惨さ」を映す先見性を認めざるを得ないシークエンスが存在する。国旗を背負った捕虜のウクライナ兵に詰め寄って私刑を行う老若男女の市民……このシーンの凄みを文章化するのはほぼ不可能なので直接見ていただくほかない。何よりも、現在のウクライナ侵攻を思い浮かべずにはいられない。ウクライナの人々が遅かれ早かれ「こうなる」ことを予見していたのだろうか。この映画の中でもっとも暴力的で残虐なこのシーンは、現在進行形で戦争犯罪とディゾルブしていくような、凄まじい文脈を有している。1979年に公開されたアンドレイ・タルコフキー監督の『ストーカー』におけるゾーンの在り様が、その7年後に起こるチェルノブイリ事故によって打ち捨てられた大地を想起させるかのように。偶然とはいえ時系列の逆転というか、それは見る者が感じにはいられぬ預言者的、どこか天使的なヴィジョンの創出に成功している。ロズニツァは新世代のタルコフスキー的な作家ではないだろうか。

『ドンバス』は、あらためて思うと多面的な方面から「戦争」を照らし出そうとする試みに満ちている。例えばラスト、新たに登場したフェイクニュース撮影班を、また俯瞰するカメラに視線を向けて意識する兵士をさりげなく配置することで重層的かつ意味深長な謎を私達に残していく。『群衆』作品からタッグを組んでいる音楽監督のウラジミール・ゴロヴニツキーの手によるサウンドスケープが織りなす「内戦」のカオスを、私達の耳によって再現しようという意欲的な試みも申し分ない。この映画を見ずして「近代戦」を描いた戦争映画は語れまい。お近くの劇場で興行されているならば、迷わずGO、だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?