無関心について
東京は冷たいという人もいるが、僕はそうは思わない。ただ、立ち止まることさえ許してくれれば、東京という街が僕は好きだ。
ホームで電車を待っている時、向かい側にいる誰かのことを考える。慌ただしく階段を降りてきて、電車を逃す人、笑いながらイヤホン越しの誰かと会話する人、僕と同じようにただこちら側をぼーっと眺めている人。あらゆる人の風景が一様に直線上に並んでいる。
会社の飲み会で、誰とも話さずにつまらなそうにしていると一人の後輩が気を遣って話を振ってくる。僕は全く興味のないその話に無理やり合わせて嘘をつく。心から申し訳ないと思う。それでも、心のどこかで「これでいい」と思っているのは、僕が成長したからなのか、何かを諦めたのか、あるいは何かを悟ったからかもしれない。とにかく、時々そういうコミュニケーションが僕にとっての人との接し方を考えるきっかけになる。
まっすぐに目を見て何かを話すということ、何かを打ち明けるということは、怖いことだ。それは対戦ゲームをするのに近い。常に「勝ち負け」を意識している気がするからだ。
世の中にあるどんなにひどい状況にも、僕たちはいくらでも無関心になれる。そして、それは自分についても同じなのだと思う。
東京における人との距離は、近くてもどこか遠く、遠くてもどこかで繋がっている感じがする。それは、各々がどこかでお互いに対する「諦め」のようなものを持っているからだと思う。全てに対して肯定も否定もしない。ただ、そこにあるだけ。東京の人々は一瞬だけ繋がっても一瞬で離れることが多い。だから、他人に対して肯定も否定もしている暇がないのだ(たぶん)。
だからこそ、大勢が何かに一斉に興味を向けたり、ある種の集団的性質を持った時は、吐き気がするほどに気味が悪い。できれば東京という街がそのままの状態で続いて欲しいと思う。大きな地震が起こっても停電が起こっても、どこか平然としているこの街が、僕は嫌いじゃない。いくらでも繋がれる時代において、「無関心」というあり方の選択肢が都市の中にいつまでも残って欲しいと思っている。
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