夏菜はとても背が高くて、いつも青いワンピースを着ていた。そして、少し不機嫌そうだった。
夏菜のことを初めて実際に見たのは、僕が小学三年生の夏休みだった。それまで夏菜は噂の中の存在でしかなかったのだ。
「毎年夏祭りの時だけ現れる女がいるらしいぜ」
駐車場の小石を車道にぶん投げながら、友達は言った。
「えー、だれ?」
「わかんないけど」
「おばけかもよ」
「ヒィー」
車が通り過ぎて、排気ガスの匂いがする。僕たちは汚れた手足をコンクリートに投げ出して、ぼーっと1日の終わりを過ごしていた。子供の頃の思い出は夢みたいに語られることがあるけど、僕にとってはそんなことはない。あの気だるさと物足りなさを、今でもはっきりと覚えている。
馬鹿みたいだと思った。家に帰れば父親が仕事から帰ってきて、つまらなそうにその日にあったことを話す。こんな風にして死んでいくのかな、などと考えては心底くだらないと思った。
「ねー、蛇って見たことある?」
「ない」
「タケちゃんはあるって」
「うそだー」
「蛇見たいなぁ」
遊園地や水族館やどんな非日常に連れて行ってもらってもつまらなかったが、夏祭りだけは嫌いではなかった。日常の風景が、違って見えるからだ。普段は見向きもされない駐車場に出店が出て、多くの人で埋まる光景はなんとも不思議だ。なんだここは、と思って近づいてみると、確かにそこは普段見ているなんの変哲もない駐車場だった。普段見ているものが、本当にその姿をしているのか、疑いたくなった。そんな違和感が好きで、僕は友達と一緒に人混みに繰り出してはそんな奇妙な感覚に身を任せた。
少しずつ日が暮れてきて、僕たちは大通りから離れて、民家が並ぶ道を歩いていた。家に帰るのを惜しむように小・中学生たちがまばらに通り過ぎるその道は、どんな1日の終わりよりも寂しかった。
「あ、あいつ」
一人が言った。指差す先には寂れたアパートがあって、その錆びた入り口の柵に寄りかかるように、見慣れない青いワンピースを着た女の子が立っていた。きっと中学生くらいだろうけど、当時の僕たちからしたら大人も同然に見えた。
彼女は何もしていなかった。ただそこに「居る」としか思えなかった。僕たちは顔を見合わせた。
「ホントにおばけ?」
「おまえ話しかけろよ」
僕は、彼女の視線の先を辿ろうとした。彼女は何かを見ているというより、目を開いているけどなんの刺激も受け取っていないみたいだった。それでも、僕たちがずっと見つめていると、彼女はやがてそれに気づいてこちらに顔を向けた。
友達は一斉に視線をそらしたが、僕は思わず彼女と視線を合わせてしまった。
その時、雷の音が聞こえた。周りの子供達が一斉に空を見上げる中、僕は彼女と目を合わせたまま動けなかった。
やがて一筋、また一筋と空から雨が線を引いていって、僕たちは走り出した。雨は僕たちを現実に戻した。
家に帰ってその女の子のことを思い出そうとしても、夢を思い出す時みたいにうまくいかなかった。
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通学路を歩いていると「何も考えなくなる瞬間」があることに気づく。その時周囲の環境は薄れていって、足元を見ながら、足を踏み出す時に鳴る筆箱と給食袋の揺れる音だけがリズムを刻んで、僕の身体の輪郭だけがはっきりしてくる。
「あ」
それは呼び止めるのでもなく、驚いた訳でもなく、全くなんのために放たれたか分からない「あ」だった。ただその音は僕の体を覆っていた薄い膜を一瞬で破壊した。顔を上げると、あの少女が立っていた。
「あ......」
僕は自分がひどく取り乱していることに気づいた。夏に見た時と同じように、青いワンピースを着てアパートの柵に寄りかかっていた。10月には肌寒い格好だが、その時の印象は夏に見た時とあまり変わらなかった。
あの時の彼女も、思えばなぜか肌寒そうに見えた。
「......」
「......」
何か言わなければ、と思い、とっさに
「なんでずっとその服なの」
と尋ねた。自分で聞いたのに、まったくそれが本当に聞きたいことではないと瞬時にわかった。
「え......」
「......」
「なんでって」
彼女は少し考えて言った。
「青が好きだから......」
少し不機嫌そうで、同時に寂しそうだった。僕は「嘘だ」と思ったけど、言わなかった。途端に彼女の後ろに見えているアパートの、錆びた門やひび割れた壁がやけに目についた。それから、街の音がうるさく感じた。
「あんたの名前は」
「え?」
「四小の人?」
「そうだよ」
そして彼女は黙った。またあの「何も見ていない目」になりそうだったので、僕は「名前は?」と聞いた。
「夏菜」
「......」
太陽がほとんど沈みかけていて、周囲の風景が青く見える。夏菜のワンピースの色は徐々に周りの色に溶けていき、そのまま消えてしまいそうだ。
名前を知ったところで僕は彼女に関する謎を解くことができない。
「夏祭りの時だけじゃないの」
「違うよ」
「見たことない」
「うそ。いつも居るのに」
足元で小石を弄りながら夏菜は少し寂しそうに下を向いた。その眼はこっちを向いていないのに、何かを僕に訴えかけているような気がした。
「わかんないや」
僕は、怖くなって逃げ出そうとした。その時、ふいに夏菜は顔を上げて「ねえ」と言った。
「蛇って見たことある?」
「え?」
いきなりの質問に咄嗟に反応できなかったが、少し間を置いて僕は首を横に振った。
それはまるで、万引きを本当はしたのにやってないと嘘をついているみたいだと思った。
「わたし、飼ってるの」
「蛇を?」
「うん」
夏菜の後ろには、ひび割れたアパートの塀が見えた。その汚れたクリーム色と夏菜のワンピースの青はまったく違うのに、何故か同じ色に見えた。
僕は、そのまま何も言えずに走り去ってしまった。逃げたんだと思った。何から逃げたのかは、わからなかった。
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夏菜のことは、それ以降見ていない。同じアパートの前を何度も通ったはずだけど、不思議とその風景を見たことすらあまり覚えていない。
僕は大学生になり、とある動物園好きの友達の家に行った。彼は、薄暗い部屋にたくさん水槽を並べて、様々な動物を飼っていた。その中に、蛇を見つけた。
「あ、これ」
「ん?アオダイショウ」
アオダイショウはほとんど動かなかったが、時折舌を出し入れしては、周囲を警戒するように眼を動かした。
「そんなに珍しい?その辺にいるやつだよ」
僕がその水槽を注意深く眺めていると、友達は笑いながら言った。そういえば、僕は野生の蛇を一度も見たことがなかった。
僕は夏菜のことを思い出していた。あの青いワンピースと、不機嫌そうな顔つきと、ボロボロのアパート。何故、あれ以来一度も見なかったんだろう。何故、もう一度会おうとすらしなかったのだろう。
水槽に入ったその蛇と目が合った気がして、僕は何故か情けない気持ちになった。
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