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旅の記:2023年9月のツアー㉞月山富田城(島根県安来市)

【旅の記:2023年9月のツアー㉞月山富田城】

やってまいりました、難攻不落、月山富田城。富田城といえば尼子ですが、保元・平治(1156~1159)の頃に平家の大将悪七兵衛平景清が築城したという伝承があるそうです。景清はとても勇猛な将で、後に「景清物」として能や浄瑠璃、歌舞伎で多くの作品が作られたそうです。承久3年(1221年)に承久の乱の功によって、出雲源氏の祖となる佐々木義清が出雲・隠岐2カ国の守護となって富田城に入った。南朝:興国2年/北朝:暦応4年(1341年)に出雲源氏惣領・塩冶高貞が幕府に追討され討死。代わりに山名時氏が守護となり、富田秀貞を守護代とした。南朝:興国4年/北朝:康永2年には佐々木道誉(京極氏)が守護となり、吉田厳覚を守護代として出雲に派遣、しかし吉田は山名時氏と戦って敗れてします。南朝:正平19年/北朝:貞治3年(1364年)時氏は出雲国守護に任命された。しかし、南朝:元中8年/北朝:明徳2年(1391年)には足利義満の有力大名弱体化戦略に当時六分の一殿といわれた山名氏も狙われ、明徳の乱がおこり敗北、再び京極氏が守護となり、京極高詮は徳3年(1392年)に甥の尼子持久を守護代とした。南北朝時代の混乱、ハンパないですね。
尼子氏が守護代を歴任していたが、文明16年(1484年)尼子経久が所領を横領したとして追放され、塩冶掃部介が守護代となる。しかし、文明18年(1486年)経久が不意を突いて当城を奪還した。毛利元就・宇喜多直秀とともに中国の三大謀将と呼ばれる経久はそこから勢力を拡大、出雲の実質的守護権力となり、城域を拡大し、整備した。経久が没し、次の晴久(経久の孫、息子は戦死)の代になると天文12年(1543年)大内・毛利連合軍が攻め込んでくる(第一次月山富田城の戦い)が経久次男・国久が率いる精鋭部隊・新宮党の活躍もあり撃退している。大内氏が衰退する原因となった戦いですね。天文21年(1552年)には足利義輝と朝廷より山陰山陽8ヶ国守護に任命され、大大名となった。天文23年(1554年)晴久、増長する新宮党を粛清。永禄3年(1560年)晴久急死、嫡男義久が家督を継いだ。晴久の死は隠されたが、大内氏を滅ぼして勢いのある毛利氏はこれを察知して、領内への侵攻をはじめた。新宮党の粛清、晴久の急死などで動揺する尼子氏は内紛が起こり各所で敗退、永禄8年(1565年)富田城は毛利氏の包囲を受けて籠城することとなった(第二次月山富田城の戦い)。士気旺盛な尼子軍は元就を一時撤退させるなど善戦したが、兵糧がいよいよ尽きて永禄9年(1566年)に降伏、開城することとなる。毛利側は義久ら尼子一族の命を保証し、家臣らはバラバラとなった。富田城には城代として毛利氏家臣が居城する。永禄12年(1569年)尼子氏旧臣である山中鹿之助幸盛らが尼子再興軍を擁して富田城を攻めるが、一度落ちたとはいえさすがの難攻不落の城、攻め切ることができずに翌元亀元年(1570年)に毛利勢本隊が到着し、再興軍は撤退した。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで西軍に付いた毛利氏は山陽・山陰8カ国から周防・長門2カ国に減俸され、出雲には堀尾忠氏が入った。当初は富田城を居城としたが、不便だとして慶長8年(1603年)に江戸幕府から新城建設の許可を得て、城地の選定に乗り出した。慶長16年(1611年)忠氏の子・忠晴の代に松江城が完成し移ったことで、富田城は廃城となった。

難攻不落!これは広い!本丸まで1800m。。
いざ!
父・経久に対して反乱を起こしたという興久のお墓がありました。
千畳平の尼子神社
太鼓壇の山中鹿之助像
奥書院に建つ忠魂碑
花の壇。発掘された柱穴をもとに復元した建物。敵の侵入の監視や待機場所などに使われていたと思われる。
本丸がある山が見えますね。写真よりかなり高く見えます。
御殿があったとされる山中御殿
いざ本丸へ!一回あきらめかけたけど、せっかく来たんだからね!
堀尾氏家臣堀尾勘解由の墓とされる親子観音
山吹井戸。井戸があるですね、こんなとこに。
西袖ヶ平
三の丸
もう少し
二の丸
本丸
尼子時代の城内の守り神オオクニヌシを祀る勝日高守神社。
明治期に建てられたという山中鹿介(鹿之助)記念碑。
この景色、やぱっりのぼってきてよかった!
さ、戻りましょう。
上から見た山中御殿平。
帰りは違うルートで
あれ?
あれ、大丈夫?
と思ったら、
堀尾吉晴のお墓。

堀尾吉晴は岩倉織田家に仕えていたが、傍流の信長に滅亡させられ、吉晴は父と共に浪人となった。その後、信長に仕え、秀吉の家臣となる。山内一豊と同じ流れですね。秀吉に従って各地を転戦、戦功を挙げ出世している。天正10年(1582年)備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の検死役を務めている。本能寺の変後、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いにも参加して活躍、天正11年(1583年)に若狭国高浜1万7000石、翌年には2万石に加増された。その後も佐々成正征伐、九州征伐、小田原征伐にも従軍し戦功を称されて徳川家康の旧領遠江浜松城主12万石に封じられた。九戸政実の乱でも功があったそうです。秀吉の晩年は中村一氏・生駒親正らと「三中老」のひとりに任命されたという。三中老は今は実在しなかったとされる制度ですが、そういう話がでるくらい重用されていたのでしょう。秀吉の死後は徳川家康に接近、関ケ原の戦いでは東軍に与した。家康が会津征伐に赴く際、その前年の慶長4年(1599年)に家督を次男・忠氏に譲って隠居、越前府中に隠居料5万石を与えられていたため、従軍は忠氏だけでいいとして、吉晴は越前への帰途についた。しかし、その途中に三河国池鯉鮒での宴会中に美濃加賀野井城主・加賀井重茂が三河刈谷城主・水野忠重(勝成の父)を口論の上に殺害し、同席した吉晴にも襲いかかり、17か所もの槍傷を負ったが、これを返り討ちにしたという。この傷のために、関ケ原の戦い本戦には参加でなかった。代わって出陣した忠氏が戦功を挙げ出雲国富田24万石に加増移封された。慶長9年(1604年)忠氏が急死、家督は孫の忠晴が継ぐが、幼年のため後見役を務めた。慶長16年(1611年)に松江城に本拠を移すが、間もなく死去した。享年69。

慶長7年(1602年)に吉晴の妻が建てたという鹿之助の供養塔
さらにくだると睡虎山巌倉寺、神亀3年(726年)行基開山という真言宗の寺院。守護だった佐々木義清が現在の地に移し、守護の祈願所として大いに栄えたそうです。
山門を出て
戻ってまいりました。

麓にある安来市立歴史資料館にて本丸の勝日鷹高守神社の御朱印がもらいます。ちゃんと本丸まで行かないと(自己申告だけど)いただけませんよ!

全体の模型もあります。ああ行って、こう帰ってきたんだな。

難攻不落、なかなか大変でしたが、ほんとうに来れてよかった!!

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