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なぜ成果主義はうまく働かないのか?

はじめに

 2000年代初頭、数々の企業がこぞって成果主義制度を導入し始め、今現在も成果主義評価制度を継続している企業が多数あります。一部ではジョブディスクリプション型といった新しい人事制度への移行を模索している企業もありますが、成果主義制度がうまくいかない限り、ジョブディスクリプションがうまくいく目はありません。なぜ成果主義制度は働かないのでしょう?

「成果主義」の芽生え期に起こりがちなこと

 著者は何度か転職の間に、成果主義人事制度の様々な段階を経験し、また、体験談も聞いてきました。そうした話から、成果主義人事制度の例を示してみたいと思います。

(※以下、人事ノウハウなどのセンシティブな情報なので多分にフェイクが入っています。話題の趣旨を変えないよう注意していますが、多少矛盾が出る点はご容赦ください)

 一例目。成果主義人事制度の黎明期。

 その企業は成果主義人事制度を導入しようと模索しているところでした。その際、最大の問題となったのは「成果の定義」です。社内には様々な部門があり、それぞれに専門化した仕事があります。成果主義においては、それらを公平に評価する必要があります。例えば、一件一億円の仕事の受注を成功させた営業担当者がいるとします。これは大変な成果です。そこで、評価基準シートに、「受注額:XXXX万円以上=S、XXX万円以上=A、XX万円以上=B、それ未満=C、受注実績なし=D」なんて基準を作ったとしましょう(実際に同社でこのような基準を作成していました)。当然ながら、営業担当者は一円でも大きな仕事を取ろうと躍起になります。会社にとっては良いことです。……本当に良いことですか?

 さて、早速ですが、こんな問題が起こりました。営業が受注してきたXXX万円の仕事、技術部門で開発費用を精査すると、YYY万円>XXX万円となってしまいました。その理由は、営業がヒアリングを怠った要件が隠れていたからです。しかし、いったん営業が受注した案件のコスト進捗管理は技術部門(管理部門)の仕事です。技術部門はコスト削減(利益創出額)を基準にした評価シートが適用されていましたから、必死になってリカバリをし、何とかぎりぎりでプラマイゼロの線まで持ち直すことができました。この案件だけを見ると、要件の聞き漏らしという失態を犯した営業担当者は高く評価され、それを何とかリカバリした技術担当者はほぼ評価なしという結果になったわけです。

 こうした失敗を経ながら評価シートをブラッシュアップしていくしかないのですが、常に時代の最先端を走る必要があるのが競争企業、そして高度専門職の宿命、同じ基準が次の案件に適用可能である可能性は限りなくゼロです。あるいは、営業部門内での政治的判断で赤字案件を取った場合などは阿鼻叫喚です。この制度がその後どうなったのかの行く末までは把握していませんが、おそらく数年で破綻しただろうと思われます。

「評価分布主義」≠「成果主義」

 さて、二例目は、比較的成熟した成果主義評価制度を持った会社です。この企業では、大手企業と関係が深かったこともあり、大手企業の古い制度と成果主義のハイブリッドのような形になっていました。

 この社での成果主義は、期初に社員自ら数値目標を立て、半期ごとにその達成度を測る、というものでした。これであれば、先ほどの会社のような実情に合わない評価軸を押し付けられて難儀するということも起こらないように思えます。しかし、実際に起こっていたのは次のようなことです。

 実に簡単な話で、自己申告の目標値は、誰もが十分な余裕をもって達成可能なものとなっていました。当然ながら、上長はもっと高い目標を立てろ、と発破をかけますが、目標未達の場合は容赦なく給与が下がるという制度であったがために、保守的な目標を立て、それを上回った分で昇給幅を得る、というのが社員として当然の戦略であったわけです。

 もちろん、そうしたことはすぐに人事側も気が付きます。これは実は多くの企業で行われていることだと思いますが、人事はこの対策として、「評価分布の調整」を行うようになります。端的に言うと、ある部門全体において、S評価はゼロ(つける場合は社長稟議)、A評価を2割、B評価を3割、C評価を3割、D評価を2割、E評価はゼロ(つける場合は社長稟議)、こういう内達を出すのです。もちろん、この「評価分布制度」は人事規定には記されていませんし、大半の社員は存在を知りません。この会社の場合、昇給するのはB評価以上。昇給する人数が完全に固定されているわけです。

 となると、人事評価面談でこんな会話が繰り広げられることになります。
「X君はきちんと目標を達成したことは評価できるけど、これでA評価は厳しいねえ」
「どうしてですか? 目標設定のA評価基準以上の数字を出しています」
「とはいえ、結局M部のY君の目標と達成値に比べるとどうしても見劣りして、Y君と同じ評価をつけるわけにはいかないんだよね」
 この会話の裏では、上長は、他の上長を相手に、評価獲得戦争をしています。人事のお達しの「分布」は最終的には全社として達成していればいい分布なので、もし他部門でA評価枠が余ればそれを奪って自分の部下にA評価をつけることができるわけです。もちろん、A評価枠が余ることなんてありません。というわけで、部門長同士の評価調整会議では、壮絶な「他部門社員のディスり合い」が行われるのです。X君は他部門からのディスりに曝されて評価を落とさざるを得なくなったんですね。

 結局、管理職の政治力で社員の評価が決まる。この社の成果主義人事制度はそのような制度に落ち着いていきました。純粋な成果の評価で決まっていると信じている社員にとってはたまったもんではありません。また逆に、こうした裏の政治的駆け引きで人事評価が決まっていると察した人は、仕事そっちのけで他部門の上司に媚び売りに行く始末。政治的に無能な上長が来ればどうやって追い出すかに腐心するわけです。

 なぜこんないびつな制度になってしまうのか。それは実に簡単な話で、人事部門が「人件費の予算」の責任部門だからです。評価の分布を一定にすれば、来年度予算をきわめて正確に予測できます。正確に予測し正確に執行することが人事部の責任であれば、こうした思考に陥ることも致し方ありません。

 さて最後にこの会社で起こったことを述べます。結果から言うと、優秀な人から辞めていきました。能力はある。成果も出している。けれども評価されない。中には「今年はこうした事情でやむなく低い評価だけどその分来年は2ランク上の評価つけるから」という上司の空手形を受け取り、翌年裏切られてサクッと辞めた人もいます。また、高い目標を掲げると損をする、という社の体質は確実に成長性の低さとして現れます。その後、その社はずいぶんと業績が低迷して苦しんでいるようです。評価分布を一定にする成果主義は「真の成果」を生まない組織を生み出すようです。

「事なかれ層」と「バクチ層」

 三例目の会社も、「成果主義人事制度」を標ぼうしていました。目標を設定する、達成度を評価する、そうした流れは同じでしたが、もう一つ、「目標の難度」という評価軸があり、安易に保守的な目標を設定させにくい仕掛けがしてありました。しかし、その封じ込めの反動か、この会社には、一ついびつな慣習ができつつありました。

 妙に高い目標を設定して大失敗すれば降給する。これは成果主義ではどこも同じです。ではほどほどの目標を設定すればいいのかというと、その「ほどほど」、つまり「目標の難度」の定義が人事規定でカッチリと枠にはめられてしまったために、おかしなことになっていました。

 人事規定による難度規定は、「高」「中」「低」に分けられていました。この難度設定は、一社目のような絶対基準を定めるのは極めて難しいということはすでに試行錯誤済みで、と言って、他の社員との相対評価では二社目のような「部門長同士のディスり合い」という政治力勝負に陥ります。折衷案なのかどうかわかりませんが、難度「高」は職位が一つ上の社員と同程度の仕事、「中」は現在の職位程度、「低」は職位が一つ下の社員程度、と明確に区切られていました。この会社ではヒラ社員でも職位が三つくらいに区切られていて、新入社員相当、特定の業務の責任を持つ程度、特定のプロジェクトの責任を持つ程度、と分かれていたので、おおよそこの範囲であれば、能力のある人が順当に成長・昇進する、というシステムになっていました。

 問題はプロジェクト責任者レベルにまで昇進した人です。その上は、管理職でした。当然、人事規定の難度設定が要求する「高難度」の仕事は、一つ上、管理職の仕事です。例えば、課長であれば課員全員の管理、成長促進、他の課との業務折衝などになります。「今日から俺は課長相当としてお前らを管理する」とか「今日から俺は課長の名代だからそっちの課との交渉は俺が全権を持つ」……もちろんこのレベルのことを宣言してやり切ってしまう変態もいますが、そもそも社内の各種制度上の権限を持たない状態でこういった仕事をやり切るのは極めて困難です。仕事の目標をこうした高難度に設定したうえで半期で何らかの成果を出すなんていうのはほぼ無理ゲーで、ヒラ最高位に達した社員の大半は「事なかれ層」化していきました。

 この「事なかれ層」。言ってみれば、大きな仕事にチャレンジせず失敗しないようにそこそこの給与を定年までもらい続けられればいい、という社員です。それが存在することそのものが問題ではなく、その比率が高すぎるため、管理職候補が著しく少ない、という問題に発展していきました。

 話は変わりますが、こうした目標設定とは別に、この会社には「キャリアパス申告」なる制度もありました。将来、どういう部門でどういう職責で仕事をしたいか、を申告するものです。上司はそれを参考にしながら育成計画を作成します。この中に「管理職志望」という項目があり、これが曲者になっていきます。

 その社にとっての管理職候補は、①「キャリアパス申告書」で管理職への昇進希望があることを会社に伝えている②ヒラ最高位でさらに高い評価を数年連続で出している、という二点でした。この二点をクリアした社員が、上長の推薦を受けて管理職試験を受けることができます。試験をパスした社員は身分が管理職となり、部下を持たない管理職として所属したのち、いずれどこかの課の課長なりに就任して実際に部下を持つ管理職になっていきます。

 ここで「管理職不足問題」です。管理職の最下位、つまり課長クラスにとっては、会社としての問題であった管理職不足への対応のために「部下に管理職試験合格者を持つこと」が大きな評価軸になっていました。管理職候補を出し管理職試験に合格した社員数を目標に設定して達成すれば文句なしに平均以上の評価を得られるのです。

 また、管理職の給与制度が非常にシビアで、一瞬でも成果を出し損ねると一般社員より低い給与に落ちかねないというもの。よって、当然ながら管理職となった人は、自身の最低限の評価のためにも「自分の部下からの管理職輩出」を狙うことになります。

 そして始まったのがいびつな慣習。「キャリアパスで管理職になることを志望している社員には成果に無関係に高い評価を与える」。部門内で管理職志向がある社員を抜き出し、その全員に最高かそれに準ずる評価をつけます。その後、管理職志向のない社員の評価をしていくわけですが、当然、高評価連発は人事部門に詰められますから、相対的に低評価になります。つまり、高評価がもらえるかどうかは「管理職志望」を申告したかどうかで決まっているのです(実のところこの慣習のせいで、仕事はできないが評価=ボーナスは欲しい、という厄介なバクチ気質の人材がやる気もないのに管理職志望の申告をすることが多かった)。

 最終的には、着実に成長し成果を生むかもしれない人は「事なかれ層」に落ち着き、一発逆転を狙う「バクチ層」が昇進し、さらに上に行くか、失敗して消えていく、という会社になっていました。バクチの上手な人(≒ビジネス感覚の優れた人)が上に行くという意味では悪くないのかもしれませんが、着実に成長できるはずの人を成長させないという意味では、実に人を無駄遣いしている会社だったといえます。

日本式成果主義は甘え

 さて、成果主義の実例をいくつか挙げましたが、これで、なぜ成果主義が正しく機能しないのか、おおよそは分かってきたかと思います。
「高度な専門職の客観的評価(絶対評価)は難しい」
「主観的評価(相対評価)は会社の人事戦略など他の要因に容易に左右される」
 特に後者は、社員のエンゲージメントという観点では致命的で、一度「正しく評価されていない」と感じたら、雪だるま式に会社への不信が膨らんでいきます。なぜなら、もう一つ、成果主義には「成果による昇給昇進は累積する」という特徴があるからです。つまり、たった一度でも正しく評価されなかったという事実があるだけで、階段を一つ上り損ねているのです。その一回の踏み外しは、その人の社員人生のすべてに影響を残します。何年たとうとも自分の給与テーブル内での位置を確認するたびに「そういえばXX歳の時に一回高評価を不当に逃した、あのせいで……あれがなければもしかすると今頃は……」という思いを再確認させられるのです。

 成果主義はどうやってもうまくいかないよ、と言われても、ハイそうですねとはいきませんね。最後に、どうすれば成果主義は正しく働くのか、という点について、考察しておきます。

 そもそも論で申し訳ありませんが、「成果主義は欧米のスタンダードだ」というあたりがすでに誤解を含んでいます。欧米は決して成果主義をベースに社会を維持発展させてきたわけではありません。逆に、成果に連動した給与を与える仕事と、労働時間に準じた給与を与える仕事をしっかりと区別しています。そして、特に成果に応じた給与を設定する場合は、シンプルに「その仕事が会社にいくらの利益をもたらすものか」をベースに、その利益のいくらかを分配する、そういった考え方です。成果給を設定されるような人員は、半分個人事業主に近い存在で、財務経理からマーケティング、開発、サポートまでの全域に責任を持つことが可能なレベルの人だけです。当然失敗すれば多大な責任を負って給与の大幅カットもあり得ます。日本式の成果主義とは似ても似つかないものです。つまり、本気で成果主義をやりたいのであれば、シンプルに「上げた利益の〇%」をやればいいんです。もちろんその場合、会社の間接部門の人員を使った場合はその人件費は経費として利益から控除されます。漫然と仕事をしていてはとても利益なんて出せません。逆に、優秀な人がここにハマれば、社内のリソースを完璧に使いこなして莫大な利益を生む可能性もあります。要するに、成果主義というのは経営者にとってはバクチみたいなもので、予算ありきの安定企業運営にはマッチしないんですね。楽に運営できて人件費の高騰を抑えつつ公正な評価をしているように見せかけたい、という経営者の甘えの結果が日本式成果主義です。

真のジョブディスクリプション型へ

 それでも、「能力のある人には高給を、能力のない人にはそれなりに」を実現したい。であれば、まさにジョブディスクリプション型がその最終形になるでしょう。しかしここにもまた日本式ジョブディスクリプションという罠が蔓延し始める兆候を見せています。
 本来のジョブディスクリプション型は、ジョブを持つ部門が裁量権を持つ範囲の中で適した人材を得る、という方式です。つまり最初から「〇〇ができる人」を募集し、そのジョブに価格を設定しておくのです。同じ業界で同じ仕事が多数募集されていれば、当然、最も高い価格をつけたところに人が集まります。逆に、ジョブ市場での相場が下がっていると感じたら、部門は容赦なく高額な人員を解雇して、もっと安くて優秀な人を雇うことができます。もちろん、ジョブ適正が嘘っぱちで全くこなせないようであれば試用期間のうちに解雇してしまえばよいでしょう。労働者にとっても、より高い給与を得たいと思ったとき、自分がこなせるジョブのレベルを上げて高額のジョブに応募することで簡単に給与アップを実現できます。ここまででお分かりの通り、ジョブディスクリプション型が機能する前提は「労働市場の流動性が確保されていること」です。日本のように労働者の権利がガチガチに守られている国でこれを実現するのはほぼ不可能だと思います。
 にもかかわらず形ばかり理想を追おうとして危なっかしい日本式ジョブディスクリプション型人事を目指そうという流れが見え始めています。「ジョブへの適正で給与が上下する」なんていう意味不明な制度だったり、「適性を見極めるために社内をたらいまわしにする」なんていう制度だったりします。そしてここが重要なポイントなのですが、そうした制度をほぼ全社員に(あるいは同系統部門内の全社員に)一律に適用、なんていう愚行がまかり通ろうとしています。ここが、日本式人事制度の最大の間違いなんです。
 実際に、どんな企業や組織にもただ労働時間を提供するだけの仕事というものがごまんとあります(一般的にはこういった仕事のほうがはるかに多い、たぶん8割以上)。こういった仕事に従事する人は、自分のスキルをより高く売ることよりも、多少失敗しても安心して働き続けられること(心理的安全性)を求めます。同じ難易度の仕事が同じ頻度で発生し新しい仕事のための引継ぎや研修もしっかりしている、仕事の仕方は標準化されどんな想定外業務にも柔軟に人員のやりくりで対応できる。そういった職場は、ジョブディスクリプション型とは正反対です。一括採用から一律の研修と安定した給与、適度な異動と経験年数に応じて上昇するであろう仕事の処理能力を「みなし」で反映する年功序列型昇給制度。実によくできたシステムであると思います。こういった職場、職責に成果主義やジョブディスクリプションを適用すると大変な不幸が起こります。期初時点で「今年一年やるべきこと」が明確に定義できないがために、「今、今日やっていることがジョブディスクリプションとなる」という本末転倒なジョブ定義が行われ、経営判断で仕事内容が変わるとき、そこのメンバーは軒並みジョブ不適合となってしまいます。ジョブディスクリプションは「同じ社内同じ難易度ならどんな仕事でも対応できる」というジェネラリストにきわめて不利な仕組みなんです。逆に、こうした社内で起きることにはほぼ何でも対応できる、という人は、ただ存在するだけで会社内のリスクを低減させ業務を前に進める、つまり利益を生み続けます。こういう職責を通常は「総合職」と呼んでいるはずです。総合職はメンバーシップ型であるべきなんです。

 人事部として面倒なのは分かりますが、やはり、高度専門職と総合職=ジェネラリストは評価制度をまるきり違うものにしなければなりませんし、なんなら、人件費の出どころも別口にしないといけません。高度専門職は専門部門の財布から、ジェネラリストは人事部の財布から、というくらいにきっちり分ければ、今後、ジョブディスクリプション型が定着する目が出てくるかもしれません。加えて、そうした区分・区別により、さほど高度でない定型・準定型業務をこなすジェネラリストも、リスクなく供給する労働量に応じた給与がもらえるわけで、これは心理的安全性、エンゲージメントにも大きく寄与します。

 このような高度専門職とジェネラリスト職の区別化は、非常に長い年月がかかります。何しろ、毎春新卒一括採用し漫然とジョブローテーションをしてジェネラリストを育てている企業に、そのシステムの中に紛れ込んでいる高度専門職を切り出せ、と言うのですから。しかし、逆に言えば一括採用の仕組みそのものを崩す必要ははないのです。

 手を付けるのならその外。つまり、今、「ゼロから」始めればいいのです。今、わが社には高度専門職は一人もいない、そう割り切って、求人活動を開始しましょう。社内にいる高度専門職相当の人材には、その求人に応募してもらいましょう。「ジェネラリストはもう足りている、高度専門職に応募しなければこの部門にあなたの仕事はない」としっかりと理解してもらうのです。高度専門職相当の仕事をしているほどの人なら、すぐに理解できます。それが理解できない人材であればそもそも高度専門職に向かない人ですから、ほかのジェネラリスト職務についてもらえばよいのです。それから、もう一つ重要なことですが、「先にジョブを定義する」ことです。どんな大企業でも、ある分野のある特定の高度専門業務に必要なのは、たいていは一人です。というより、一人の能力でできる、というレベルまでジョブの定義をしっかり分解します。分解できないジョブがあれば、それは高度専門職ではありません。ジェネラリストに任せます。何度も言いますが「しっかりと垣根を作ること」、これがジョブディスクリプション型に一番大切なことです。そのための最重要な手順の一つがジョブの定義です。きちんとジョブを定義すれば、垣根は万全です。これを怠り全員をジョブディスクリプション型制度にハメてしまうと、ジェネラリストの悲劇が確実に起きます。エンゲージメントは落ち離職率は手が付けられなくなります。逆に、全員が一括採用型ジェネラリストのままでは競合を出し抜くほどの抜きんでた人材をプロアクティブに発掘できないため、それが適当な時、適当な職場に現れるかどうかは運次第です(きわめて分の悪い賭けです)。この先三十年、生き残れる企業になれるかどうかは、今、ここに手を付けられるかどうか、だと思います。

まとめ

  • 「成果主義」は社内一人起業家向けの制度。社員に一律に適用するものではない。

  • 一括採用+年功序列は会社の仕事の8~9割をカバーできる。

  • 抜きんでたタレントを得るならばきちんとジョブを定義し垣根を備えたジョブディスクリプション型職域をジェネラリスト職域の外側に作る。



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