研究をしたい理由(2021年版)

毎年恒例となった研究したい理由の今年版も書いておこうと思う(すっかり忘れていた)。昨年と比べるとだいぶボジティブな感じになると思う(単純に今の気分がいいだけかもしれないが)。

(続・続)内容より方法に興味がある

一昨年も昨年もくどくど書いているが私は学問の内容自体というよりは科学の方法論に興味がある。心理学だと例えば「チョコレートを食べた人より食べなかった人の方が集中力が長くなる」というような研究があり得る。これだけみると「じゃあ明日から仕事・勉強の前にチョコレートを食べようかな」という気持ちになる人が多いだろうが、私の興味は一歩手前のそもそも「チョコレートを食べた人と食べてない人って何?」「集中力が長くなるってどういうこと?」「どうやって調べたの?」というところにある。

チョコレートを食べた人と食べなかった人というのはおそらく二つの実験グループに分けて、きっと何か集中力を測る課題をさせるのだろう。片方のグループには25gのチョコレートを課題の前に食べてもらい、もう片方のグループには何も食べずに課題をしてもらう。集中力は単純な計算問題をどれだけ早く解けるかで算出できるだろうか?いやそれよりもどれだけミスをしたかを数えたほうがよいだろうか?そもそもチョコレートを食べるグループと何も食べないグループを調べたら、何かを食べた効果かもしれないから、何も食べないのではなくて飴か何かを与えたほうがいいだろうか?

こんな感じで、実証的に人の心理を研究する場合(つまり心理学:一般の認識とずれがあるかもしれないが、学問上心理学と行った場合は科学手法を用いて心と行動の研究をすることを指す)、調べたい内容を図式化できるような形で実験の枠組みを作っていく。実験できるほどシンプルにかつ本質は落とさないようにデザインするのが面白くもあり難しいところである。

もちろん一回の実験だけで普遍的な事実として確定することはなく、あらゆるサンプル(赤ちゃん?大学生?ご老人?)を実験対象とし、また繰り返し何度も同じ効果が見られることによって人間の平均的な傾向がわかるようになってくる。ちなみに先ほど出したよくありそうなチョコレートのような話であってもまだどの程度有効なのか、因果関係ははっきりとわかっていない。

博士四年目になって改めて学部生の一年生の時に思った、方法論のシンプルなところの面白さに帰ってきた感じがある。今まで書いたように科学論とか科学哲学とかろくに勉強しなかったので理論的なあれこれは全くわかっていていないのだが、やっぱり面白そう…と少なくとも自分自身は感じているということは言えるかも知れない。理論とは別に自分が今まで経験したことはまだ言語化できていないことに関しても面白みはあると思っている。なんでもそうだが、科学も理論家だけではなくて実践家の知見が必要だと思う。自分はもしかしたらそこで何かできるかもしれないし、やっぱり何もできないかもしれない。

博士課程で別に何かわかるわけでもない

四年生になり、あと一年でお金もなくなるし時期的にそろそろ良い頃だとおそらく先生も思ってくれているようで、ようやく少しずつ卒業への道が見えてきた。最初はあまりにも先が見えなくて途方に暮れていて、三年生ぐらいになってもまだお先真っ暗だったので鬱々としていたが、何かの区切りが着くのは内容がどうというよりは単純に時間の問題なんだと気づく。

もちろんただ在籍しているだけで誰でも博士号が取れるわけではないので、ある程度内容がないと論文が書けないわけだが、しかし先ほど述べたような「科学の方法論とは」みたいな問いに対して「〇〇である」という回答を持って卒業できるわけではなさそうだ。△△っぽそうとか、××ではないとか、そういう個人的な信念は持ち始めたけれども、それも今後変わっていくだろう。博士課程の間で絶対的な何かを得られると期待していたわけでもないと思うが、しかし本当にこれといったものがないまま卒業しそうである。だからこそまだこの先研究できるのかもしれない。

強いて言えば身についたものと言えば英語力、プログラミングスキルあたりだと思うが、これだけで食っていけるほど特化してるわけでもないので、実験心理学者だったら並のレベルだろうか。あまり他人がどれほどプログラミングができるのかもよくわからないので比較できないのだが。

結局何もわかりそうにないし、おそらく何もわからないまま終わる。最後数ヶ月はわからないついでに他大学で全然違う方法論の先生のところで学ばせてもらって、それも含めてこれまでやってきたことをまとめて博論になればいいけどどうなることやら。

研究したい理由はいるのか?

ここ三年ほど研究したい理由を書いているが、結局理由がいるのかはいまだによくわからない。なんとなく小学校から大学まで、わかりやすい目標を立てて(受験や就職など)、ひたすら目標を達成するよう努力するというような環境にいたためか、何か「やる」ためには目標及び付随する理由が当然の如くあるように思っていたと思う。重要な意思決定であればあるほど、理由は納得できるものでなければ自分も前へ進めない。

しかしそれは一時的なものに対しては有効でも、長く続けて行くことに対してはあまり効果がないように思う。ずっと続けて行くということは途中でゴールも変わるしその間に理由も変わるし、学校が終わってからの人生は外から区切りがつけられることがないので、むしろ意識的に終わらせて行くことが重要だと思う。今までは始めるための理由を考えていたけど、これからは終わらせるための理由づけという感じだろうか(いまいち言語化できていないけど)。下條信輔先生のポストディクションの話を思い出す。

前から聞いている墓場のラジオというポッドキャストの、シーズン1か2でMCのシブちゃんが「終わらせ方を考えて物作りをする」というようなことを何処かで言っていたような気がして、今更ながらなるほどなぁと思う。私は理由がわからなくなる(自分の本当にしたいことが何かわからなくなる)ことが多いが、終わり方が見えるような方向に描ける未来が理由の見つかりやすいところかもしれない。

とはいえ世の中は特に理由なく決まっていくことが往々にしてあり、何もかも終わりが見えるわけではないと思う。しかしながら大人の生き方には理由が必要な時がある。理由がないことに対して理由をでっち上げて面接を受けたり申請書を書いたりするのが自分に嘘をつくようで大嫌いだったが、だんだん歳と共に本音と建前が必要なんだということが身に染みてわかってきた。おそらく同期は就活時に気づいていたことだと思うが、私は長らく子供のまま来てしまったようである。