研究発表会(四年生時)

今年の研究発表会のまとめ。二年前に一度書いている。

去年はちょうどコロナでロックダウンになって混乱していたのと、二年の時発表した実験の追試でほぼ同じ結果だったから特に書かなかったのだろう。それか単純に怠けていた可能性もあるし、思い返せば研究へのモチベーションがどん底に低かったような気もする。しかし実際どうだったかは日記を読み返さないと思い出せない。人間は忘れるから前に進めるのだと昨日先輩と語り合ったところである。

今年も引き続きコロナなので、対面ではなくズームでの発表会となった。気づいたら私も半分より上の学年になっていて怖い(いつまでも後輩でいたいのに)。なんだかんだこの一年で卒業した&しそうな先輩が多かったのか、いつもより発表者が少なくてびっくりした。そして数人消えていたので中には辞めた人もいると推測する。

いつも通り一人当たり発表十五分と質疑応答五分が割り当てられていて、合計で二十分である。コロナ以前は途中のコーヒーブレイクや発表会後の一年お疲れさまパーティーなどで色んな人と話す機会があったが、今はもちろんコーヒーブレイクと言っても各自休憩するだけの時間となり、当たり前だがパーティーなどはない。一応卒業生へのズームお祝いの会はあったのだが、普段とは全然違う。去年もそうだったけど改めて寂しいなと思う。さて私の時はどうなってるだろうか。

二年・三年の時に発表したデータは、技術を教えようという意図がある時、熟達者(先生)はどのようにピアノの演奏を変化させることができるのかということを調べて、大まかに二つの傾向が見られた。私は音楽の表現技法に着目して、同じ曲を二つの異なる技法をつけて弾いてもらった。具体的にはアーティキュレーション(レガート・スタッカート)という音の滑らかさを変化させる技法と、ダイナミックス(フォルテ・ピアノ)という音の強弱を変化させる技法である。

① ゆっくり演奏するときもあるが、教えてる技術による(具体的には、アーティキュレーションを教えている時はテンポは遅くなるけど、ダイナミックスを教えている時は遅くならない。遅くなると言っても微々たるもので全体的なテンポがものすごく落ちるわけでもない)
② 教えてる技術に関係ある部分のみ、演奏を強調する(例えばより短いスタッカート、フォルテとピアノの間の強弱変化を強調)

これらの結果は、大人が赤ちゃんに喋ったり、赤ちゃんでなくても外国語学習者に話す時の傾向と類似しているので、先行研究の流れに沿ったものとなった。同じ実験デザインで二つの違う曲(音楽的に単純なもの、複雑なもの)でやったところ割と一貫した傾向が見られた。

次はこの変化が学習者(生徒)に認識されるのか(そしてゆくゆくは技術の習得に役立つのか?)を調べるための実験をした。コロナ中の実験なので、人が全然集まらなくて完全には終わらなかったが致し方ない。前の実験で得られた実際の演奏をランダムに抽出して、どういう特徴を持った演奏が「教えるための演奏」として認識されるのか調べた。まだ完全にデータが集まってないのでなんとも言えないが、どうも比較的テンポが遅い演奏とそれぞれの技術(アーティキュレーション・ダイナミックス)の強調が激しい演奏が「教えるための演奏」として評価されているようである。

ここでの説明でわかっていただけたかはわからないが、これを発表したところそれなりに直感的だったのか特に批判的な質問を受けることもなく、ラボミーティングで発表した以上のコメントはもらえなかった(残念だが五分しかないししょうがない)。この特徴を認識することで本当に学習の役に立っているのか?というところが自分でも気になるし質問ももらったのだが、ピアノ演奏の「学習」の測定がどうもしっくりこなくて、これをイギリスの滞在研究でじっくり考えたいと思う。

実験的に考えると、学習が進むっていうことは、一つには今回やったような特定の演奏が認識されるということが第一歩にもなるが、他にもこういう教示的な演奏を聞いた方が記憶の定着が良いとか、教えてる先生の真似が上手くなるとか、習ってる曲だけでなく習ったことを他の曲へも一般化できるとか、そういうことが考えられる。これらを実験して確かめるのはもちろん良いのだが(時間があればやりたかったが力不足である)、しかし音楽の表現技法の習得のような高度な技術のことを考えると、そもそも本当にこれが学習なのかとふと立ち止まる。

実際に民族音楽学の文献などをちらちら読んでいると、「そもそも教わってない」みたいなことが書かれてるのはよくあることで、もしかしてなんかとてつもない見過ごしがあるのではという気がするが、まだ何も言語化はできない。イギリスの三ヶ月弱の滞在研究は、民族音楽学の先生と一緒にインタビューなどを通してそもそも学習とか技術伝達って何というところを質的に見てみたい。まだイギリスに行けるのかはわからないのだが(コロナ的な意味で)。

学部の頃は授業ではとても古典的な心理学実験しか学ばなかったし、リサーチアシスタントをしていたときも図形とか顔の刺激を使った実験のお手伝いが多かったので、こういうものは人間であれば誰でも(ある程度)学習する。要するに研究者自身が視覚の熟達者でもあると思うのだが、私が卒論の時にやった創造性とか、今回の音楽技術の伝達の話とか、一部の人しか達成し得ないことなので、私の体験を使うことができない。しかし一部の人とはいえ脈々と受け継がれてきたことだから、きっとそれを支える認知的基盤があるのではと考える人が多いのもわかるのだが、そこのところをもうちょっと整理して考えてみたいというのが今の感覚である。

なんせ言語化できていないのでスパッと何も書ききることができないのだが、でも博士の最後の方になって自分なりの研究視点?興味?のようなものが出てきてよかったなと思う。元は科学哲学に興味があって、方法論に疑問があってこの世界に帰ってきたのが、自分の研究を通してようやくアプローチできるようになってきたのかもしれないという希望である。

そう考えてみるとただ普通に心理学の実験をやっていた二年・三年の時は地味にしんどかったのは、なんだかやりたいことと若干違うというモヤモヤがずっと続いていたからだろう。長年モヤモヤしている気持ちは不快で嫌いだったのだが、今思うと全部良いシグナルな気がする。研究も人間関係も。

来年順調に行っていれば、もう研究発表会で発表することはない(してもいいけど、博論を書き始めたら必須ではなくなる)。順調に行っていればいいが、お金があるまではわざわざ妙に忙しくせずにのんびりやってもいいかなという気持ちになっている(とはいえ早く卒業して次のステージには行きたい)。