新・何もない自分

明確に記憶してる限り、「私には何もない」と思ったのは大学を卒業して働いているときだった。その当時は「コンテンツがない」というような表現をしていたように思う。当時就活がうまく行かず、よくある大学生の一般的な方法で仕事を獲得できなかった私は社会から全否定されたような気分で、自分の売りや強みをわかることもなく、ただ悶々ととある研究センターの中で働いていた。

当時HPを作ってみたくて、サーバーを借りてWordpressのブログサイトを立ち上げたけれど、自分には書くことがなくて困った。とはいえ、折に触れ生活のこととか考えたことを書き溜めたりして、それがきっかけで生まれた人間関係もあったのだけれど、しかし書き手の自分が常に思うのは決定的に自分の人生には何もないということであった。

何もないってどういうことかというと、つまり私の人生には私に固有の意思決定がなかったとも言えるかもしれない。幼稚園に行って、小学校に行って、中学校に行って、高校に行って、浪人して、大学に入って卒業して非正社員みたいな流れだったので、ごく凡人的に生きてきたのに最後の最後で社会から蹴られたような人生だった(しかし今思うと非正社員として働いているなんてすごく現代的というか、立派に社会の一員じゃないかと思う、納得していたかどうかは別として)。

人によっては進学に対する意思決定がはっきりしている人もいると思うが、私の場合は全てがなあなあだった。正直大学は愚か高校にすら行きたくなかったので、他の道を調べたこともあったが、結局何も行動せずそのまま受験をして当面の人生を決めていた。大学まではそれでよかったけれど、一般企業への就職というところでつまづいてしまった私は、ここでなんとなくの人生を考えさせられるようになる。

それが今から十年前ぐらいで、しみじみあれからいろいろあったなぁと思う。感覚としてはあっという間だけれど、とても十年の間に起こったとは思えない気持ちもある。その半分ぐらいはもうヨーロッパにいて、また全然違う自分を確立してきている。

ヨーロッパに移り住んだのは2016年の秋だが、こちらに拠点を移すなんてことは考えておらず、とりあえず一年ということだった。しかし博士課程に進学してしばらくこちらに住むようになってから、日本とヨーロッパの中にいる自分の葛藤が常に心の中にはあった。二十年以上日本で生まれ育ったのだから日本人という揺るぎないアイデンティティーがある一方で、ここ近年の記憶がほとんど日本にないのは、新鮮で刺激的な面がある一方で、どこにも根ざすことない不安定な私がいることにもなる。

そんな感じで何とか自分を安定させるために色んな方法を試みて、その中でもインターネットのコミュニティーは一番自分を支えてくれたと思う。最初は手軽に日本語が話せる場所という気持ちで参加していたけれど、そもそも「日本」に限らなくともインターネットは場所も性別も年齢も何もかもを超えて人と交流できる場所だったわけである。いやぁ、インターネットは素晴らしい。

とはいえなかなかネット上で全てを完結させるのは難しく、私にはオンライン上にのっていない人間関係も存在するし、そしてやっぱり私は日本人で、ウィーンに住んでいて、博士学生で、女なのである。また生きるというのは、そう言った身体性を持った自分が世界と関わっていくということでもあるように思う。仕方なく、という意味ではなく、今はむしろそうしたいという積極的な姿勢だ。

私はまだ博士課程の途中だけれど、もうすぐ研究を終えて働き始めることになると思う。これも変な感じだけれど、大学をでたから就職だと言われたあの頃の受動的な感じとは違って、むしろ能動的に次のステップに進みたいと思う。どんな職につくのか、どこで働くのか、何も決まっていないけれど、また「新しい何もない自分」になる。

「新しい」とついているから前とは違っている。前と違って本当に何もないわけではないのだ。とはいえ、ここで言っている私の何かは、手に入れた学歴でも、英語力でも、その他プログラミングとか統計みたいな専門知識の話でもない。この十年は自分の意思で選び、そしてそれに賛同した人が支えてくれた人生であり、それはただ提示されたものを受け取るプロセスとは異なる。

私は自分で考えて選ぶほうが、提示されたものを受け取るより優れていると言いたいわけではない。人にはそれぞれの好みがあるので、色んな生き方の人がいたら楽しいと思う。ただ私はずっと自分の言葉を探していて、それは頭で考えるだけでなくて行動することによっても獲得できるところが大きいのではないかということだ。