関係性の中のいろんな私

ウィーンに引っ越してから大学まで歩くことが多くなったので、しばらく聞いていなかったポッドキャストをまた聴き始めた。その中の一つで『樋口聖典の世界』という一つのエピソードあたり十分ぐらいのさくっと聴ける番組があるのだが(樋口さんは有名なコテンラジオのメンバーの一人)、その中で自分というのは環境によっていくつも違う自分がいて、他者との関係性の中で作りあげられると思うというようなことを話していた。

私も度々本当の自分ってなんだろう…と思うことは多いので、これはなるほどなぁと思ってSNSに投稿すると、フォロワーの人が間主観性の話を教えてくれる。

一応認知科学の学生なので、間主観性の話ぐらい知っておくべきだと思うが、そもそも哲学的な知識に疎いので単語を聞いたレベルでなんのことかさっぱりわからず、ざっとネットで調べてみた感じでもよくわからない。今のところの理解だと絶対的な「世界」とか「主観」みたいなものはなくて、他者との関係の中で(あるいは他者の認識と対峙させて)初めて共に構築される相対的な「世界」や「主観」があるということだと認識している。私のこれから書くことが間主観性と本当に関係があるかはどうかわからないが、明らかにこう言った考えは学問分野でも長く議論されていることらしい。

もっと日常的な感覚に近い言葉でいうと、樋口さんがポッドキャストで言っていたような、環境(関係性)によって違う自分がたくさんいるということである。もちろん物理的な自分の身体からは離れられないし、自分の記憶は自分だけがずっと保持しているものだからある程度の一貫性はある(もしくは一貫性を保とうとはしている)かもしれないが、喋る相手によってあるいは喋る言語によって、まるで同じ自分とは思えないようなことがある(ただし嘘をついているわけではない)。少なくとも私はそれを感じることが年々多くなってきた。

樋口さんの実用的なアドバイスでは、自分の中で何か気に入らない部分を見つけた時に、「〜〜な自分がが嫌い」というとまるで絶対的な自分が嫌いという風に聞こえて辛くなるので、「××な環境にいて○○のように振る舞う自分が嫌い」という風に相対的な自分に置き換えて捉え直すと、問題を改善しやすくなりより生きやすいのではということであった。そうやってより好きな自分に出会えるというわけである。

ポッドキャストでの例だが、「朝起きれない自分」がいた時に、朝起きれない自分はダメだと考えると辛いが、もし「朝起きなくてもいい」という環境を作り出せたら、「朝起きれない自分」に出会わなくていい。可能な限りそうやって自分が無理をしないような環境を作り続けていけば、どんどん自分のことが好きになれるという理屈は自分の中でストンと附に落ちた。

私の場合は自分の何が気に入らないのかがいまいちはっきりしていないのが問題だが、嫌な自分が起こる状況はそれなりに思いつく。大体特定の人といる時、特定のコミュニティにいるときなので人間関係に問題があるのだろう。

今の生活の自由度はかなり高く、いつどこに行かなければならないということもほとんどないし、会いたくない人には会わなくてもいいし、やりたくないことはやらなくてもいい(それでも辛いのだからどうしようもないが)。

というわけで特別今何かに困ってるわけではないが、住まいをウィーンに移して環境が変わったので、それもあってかなんだか同じ自分なのに全く違う自分になったような気がしている。それは新しい自分への出会いという意味ではワクワクなんだけれど、これまでの自分(の一部分)とは知らず知らずにお別れしはじめていて、もう取らなくなる連絡とかやらなくなる習慣みたいなものがあるんだろうなと思うとなんだかそれは少し悲しい(自然となくなるものだから自分に必要がないわけだけど)。