博論提出まで一ヶ月・学位について

博論提出まで一ヶ月


2017年の九月にブダペストで博士課程を始めてから六年目に入った。当初は博士課程三年間の奨学金が出るというオファーだったので、三年で終わるのかと思いきや、入ってみるとこのプログラムでは三年で終えた人など誰もおらず(若干詐欺かと思ったが)、自分は何年いることになるのやらと思っていたのだが、今終わりかけてみれば過去の先輩方と同じぐらいの五年半ぐらい時間がかかることになった(もちろん四年で終わった人もいるし、逆に八年かかった人もいるので人それぞれであるが)。

博士課程の中で個人的に一番大切だと思ったことは研究できる基盤を支える経済面だと思う。これは個人の生活費も指すし、研究室がもってる研究費のこともいう。お金に困窮すると精神が病むし、そもそも研究をやろうという気持ちにならない。改めて研究者というのは暇で生活の心配がないぐらいの余裕がないと良いものが作れないのではないかと考えさせられた。お金がないとどんどん現実的な思考になってきて、あれこれ夢を見る力が弱くなってしまうように思う。幸い私はお金で困ることがなく、自分の指導教員をはじめとして色々な方が経済面でも精神面でもサポートしたのでここまでやってこれたと思っている。これから博士課程を始める人がいたら、お金の問題は現実的に考えた方が良いというアドバイスをしたい(私は偶然なんとかなったが、同僚でなんとかならなくなった人たちを何人も見ている)。

博士課程を始める前には想定もしていなかったコロナ禍で二年ぐらい実験ができなかったこと、加えて大学がハンガリーから国外追放にあったので、ウィーンで一から研究環境を整えることになったことは、こう書いてみると私の博士課程に多大な影響を与えたように思う。ただその渦中にいた時には、ロックダウンでもすでに持ってるデータがあったから分析や論文執筆はできたし、ウィーンで実験できるようになってからは実験対象者が特殊(ピアニスト)ということにもかかわらず、データが集まらなくて困ったということは一度もなかった。これも指導教員はじめとして、事務の人やラボマネジャーが尽力してなるべく研究に影響を与えないように努力してくれた結果だと思う。

自分は研究者に向いてないしなれるはずもない(ので大学院にはいかない)と思い込んでいた学部卒の自分が今の自分を想像していただろうか。人生とはどう転ぶかわからないものである。大学院に行ってみて、学部卒業時によくしてくださった教授の先生が「せめて修士ぐらいはいったらどう?もったいないと思うな」と言ってくださった理由がわかったように思う。学位自体はどうでもいいと思うが、学士、修士、博士と進んでいくにつれ、どんどん養われた考える力は私の人生において宝物だと思う。これからはこれをどう活かすかということで、研究の道に進むのか、それ以外の仕事につくのか、いまだに将来は定まっていないが、自分をそれなりに評価していただける環境で周りの人と切磋琢磨して、これまで身に付けたことをどんどん還元していきたいなと思う。

しかしまだ博論を提出していないので、とにかく目前の仕事はこれをちゃんとある程度まとまった形にして出すことである。あと一ヶ月程度で良くも悪くも一区切りがつく。アカデミア以外の仕事では博士号をもっていようがいなかろうが関係ないが、しかしちゃんと終わらせることと途中で止めることには雲泥の差があるであろう。自分の研究の集大成と言うよりは、とりあえずの自分に対してのけじめである。

学位について

今博士論文を書いていると同時に求職中でもあるので、時折求人に応募したり面接を受けたりすることがある。最近寺田寅彦の『学位について』という随筆を読んだのと自分の就活経験と照らし合わせて思ったことを書く。

寺田寅彦の書いたことを読んでなるほど思ったのは、学位というのは運転免許証のようなもので、別にそれ自体には研究の質を担保するものでもなんでもないと言うことであった。運転免許証がないと運転できないが、運転免許証をもっている人が全員運転が上手かと言うとそうでないのと似ていると言うことだと思う。日本だと学士なら四年、修士なら二年、博士なら三年というように、それぞれの課程において、これくらい期間相応の研究をし終えましたよということの証明であって、だから人間としての能力が高いとか仕事ができるとかそういうものを保証するものではない。

ただ自分が博士課程を終えるにあたって、やはり学士と修士、そして修士と博士の間には壁があって、学士号取得後と博士号取得後は全く同じであるはずもない(一部の天才は除く)。私のような凡人は学士、修士、博士と進めていくにつれて、論理的思考能力が圧倒的に伸びてきたと思うし、それは自分の研究分野だけの話ではなくて、その後研究とは関係のない仕事をするにしても役立つ高いレベルの問題解決能力だと思う。研究は必然的に新しい知識を生み出す力なのでその力が役に立つのは当然であるが、企業でも新しい仕事を生み出す人に共通する能力だと思う。

日本では博士号というものの価値があまり認識されておらず、あまり優遇されていないと言うような記事はちらほら見かける。

このブログでは比較としてアメリカでの博士号取得者の年収で比べているが、もちろん必ずしも年収だけが能力を反映する基準ではないと思う。先ほど述べたように学位というのはその人の研究の質を評価するものではないので(なぜ評価するものではないのかは寺田寅彦の文章を読むとわかるはず)、博士号をもってるから年収が高いと言うのはおかしい。ただ、博士号って別に修士号とか学士号と同じだよねと思われると、それはちょっと違うぞと思うこともあるわけである。

私が今ヨーロッパに来て思ったのは、意外と博士号取得してあるいは博士課程を中退して一般の仕事(しかも待遇の良いポジション)についている人がたくさんいると言うことである。一方日本では自分の研究界隈のつながり以外で博士号を持っている人に出会ったことは記憶している限りない。

科学技術指標2021より

このデータを見てみると、日本は百万人あたりの博士号取得者が先進国の中でも低いことがわかる(通りでそこらへんで見かけることがないわけである)。縦軸の数字を見てもらうとわかるように、多い国でも百万人あたり400人以下しかいないようなので、一般の認識が低いのもしょうがないとは思う。とはいえドイツやイギリスなんかは日本と比べると二〜三倍はいるので、博士号取得者に対する社会的な認識も日本とは異なるように思う。

日本では、残念なことに企業が博士号を持っている人材を歓迎/優遇するという話はあまり聞きません。実際に企業に入った先輩からは「博士課程で身につけた能力や人脈は役に立つが博士号そのものが昇進や給料に直接関わることはない」と聞いています。終身雇用が前提であり社内で教育していくシステムが存在する日本企業にとっては、勤続年数こそが重要であり、学位は関係ないのが現実と思います(私は社会人経験がないですが、このような話を複数の友人から聞いております)。

博士進学のすすめ:日本と海外の大学院の比較

私はまともな社会人経験がないのでこれが正しいのかわからないのだが、こういう認識をされているのではないかなと思う。高度経済成長期のような時代には、この解釈はあながち間違っていないかなとは思う。当時は日本が圧倒的に貧乏だったことに加え朝鮮特需や円安など、私が考えるに様々な外的要因がうまく作用して物を大量に作っては諸外国へ売ると言うことでどんどん国が発展していったように見える。もちろん一部のずば抜けた政治家や経営者の創造性や発想力なしではあり得なかったと思うが、国全体の進む方向がある程度わかっていたのではないかと思う(おそらくアメリカのようになりたいというような想いだったのではないか)。

そんなイケイケの日本に博士はいらない。というか博士は研究をすればよいのであって、企業の一戦士としてはいらない。ただ黙々と目的に進んでたくさん働きたくさん稼げるような社会では、いちいち考える必要もない。そう言う意味では、博士みたいな人が社内にいると手持ち無沙汰というか時には荷物のように感じられるのもわからなくもない。

博士は考える人である。博士は考えることに特化して訓練を積んできた人々なので、言われたことをただやるような感覚を持ち合わせていないだろう。それが終身雇用を前提とした教育を長年続けてきた日本の雇用形態の中ではうまくフィットしなかったのだが、今はご存知の通り終身雇用のモデルが崩れかけ(というか崩れていて?)、会社もこれをしていれば安泰というようなビジネスを作れなくなってきたように思う。特にインターネットが発達して一人一台スマホを持つような時代、情報伝達が加速し続ける中で、数年後どんな世界になっているのかもこれまでよりどんどん予測しにくくなっている。

日本はある程度まで発展してしまった。正直にヨーロッパに住んでいて思うが、ご飯は美味しいし娯楽は面白いし平和でいい国だと思う。しかしある程度伸びきった経済の中で、世界一の長寿国であり、一方で出生率は低下している現状を踏まえると、これまで通りのモデルがうまくいかないのは一目瞭然である。

私はこんなときだからこそ博士が役立つのではないかと思っている。先ほども述べたように、私は博士は考える人だと思っている。これまでの日本では研究職にしか活かせなかった能力かもしれないけど、今後は一般の企業でもどんどん使っていけるのではないかと考える。そう言う期待を込めて、現在の就職活動中にはなるべく博士課程中に自分が身に付けた能力をできるだけ説明してわかってもらおうと努力しているつもりである。散々述べているように、博士号を持っていること自体に価値はないので、博士号の凄さは押さずに、むしろ何をやったのかを具体的に考えて書いて説明する。

私のように運良く博士をさせてもらった人がちゃんと外に出て説明することで、将来的には博士号取得者の価値が向上すればいいなと思っている。世の中にどんどん博士が増えると、将来の若者にとっても博士をとることが選択肢の一つとして入りやすくなると思うし、それで研究界隈にも良い還元ができるのではないかと思う。ちゃんと博士の価値を理解してもらうこと、それ相応の給料をもらうこと、などちゃんと当たり前に能力が評価されるシステムが作り出せたら「研究は好きだけど博士とっても就職がないからやめよう」というようなネガティブな発想はどんどんなくなっていくはずである。

つまるところ私も寺田寅彦の書いたように学位は質を保証するものでもなし、出し惜しみするものではないという点に同意する。寺田寅彦は研究界隈のことを考えて、博士が増えれば増えるほど、くだらない研究ばかりであっても確率的にくだらなくない素晴らしい研究が出る可能性があるので、どんどん学位を出して結構という立場であった。私は研究だけでなくて、今後の日本のような、ロールモデルのないような世界を生き抜くにはつまるところ考える力ってとても貴重で、その一つの例として博士がもっともっと増えてもいいんではないかと考える今日この頃であった。

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こんなこと長々とをまだ博論もかけていないのに書いているのは実際執筆に苦労しているからである。この字数分博論に還元できたらどれほど今日進んだだろうか…でもこの執筆直前の気持ちとか、終わってしまうと変わった形で解釈してしまうように思うので、今の段階でも書き残しておきたいという気持ちでただ徒然と書いている状態である。