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#7 兼業生活「豊かさを<中庸>から考える」〜大高健志さんのお話(1)

インタビュー2人目は、クラウドファンディングのプラットフォーム「MotionGallery」代表の大高健志さんです。大高さんとは、映画プロデューサーの友人を通じて知り合いました。そのご縁で飲みながらお話したこともあれば、雑誌のお仕事で何度かインタビューしたことも。そしてお話を伺うたびに、「ビジネスの世界にいるけど、公共心が強い方だなあ」と感じていました。今回は大高さんに、「ビジネスと文化とお金」について、個人的な疑問をぶつけます(全4回の記事です)。

おおたか・たけし
1983年生まれ。 早稲田大学政治経済学部卒業後、外資系コンサルティングファーム入社。戦略コンサルタントとして経験を積んだ後、東京藝術大学大学院に進学。クリエイティブと資金とのよりよい関係性の構築の必要性を感じ、2011年にクラウドファンディングプラットフォーム「MotionGallery」設立。コロナ禍の2020年春に実施された「ミニシアター・エイド基金」は、3億3000万円を越える支援金が集まり話題となった。

なぜ「ミドルバジェット=中間層」を支援するのか

室谷 これまで何度か雑誌のインタビューで、大高さんが起業した動機や、事業で実現したいことを伺ってきました。その中でなるほどと思ったのは、「クラウドファンディングを使って、文化に流れるお金をつくる」という点です。

大高 たしかに、僕が起業に求めたことはビジネスでの成功ではありません。お金の流れをデザインし直し、文化とお金の関係を変えたいというのが、MotionGallery設立の動機です。

室谷 MotionGalleryは映画製作で多くの成功例を出していますが、大高さんは「1000万~3000万円のミドルバジェットの映画を多く輩出したい」と言っていますよね。

私は今回の兼業生活noteで、ビジネスと個人の生活の間に横たわる“深い谷”をどうすれば越えられるかを考えています。その際、大高さんが「ミドルバジェット=中間層」を活性化しようとしていることが、ヒントになるんじゃないかと思っていて。

というのも、現代のようにグローバル大企業がどんどん資本を拡大すると、多くの人がその傘下に入らざるを得なくなります。免れるのは能力ある個人、というふうに働き方が二極化していくと、中小企業や個人商店のような「中間層」で働く人が減る。厳しい競争にさらされるグローバル大企業は、働く人を調整弁と捉えがちで、非正社員も多いですよね。これって、働きがいや社員教育という面でどうなんだろうと思います。

そんな問題意識から、大高さんが「ミドルバジェット=中間層の映画を支援する」理由が気になりました。まずは、そこから聞かせてもらえますか。

大高 うん、そうですね。1つは、自分の経験からです。僕は今でこそ芸術祭のキュレーターを務めることもありますが、子どものころはふつうにシネコンで年に何回か、大作映画を観るだけでした。思い返すとそれは単なるリクリエーションで、「わっはっは!」と楽しんで帰ってくるけど、映画への深い洞察は特にない。おそらくそのころ作家性の強い映画を観たところで、ぽかーんとして終わったでしょうね。

そんな自分が映画に興味を持つきっかけになったのが、中学2年で観た『12モンキーズ』(1995年、テリー・ギリアム監督)。友達と冷やかしで観るつもりだった『ドラえもん』のチケットが売り切れていた……という厨二病的な理由でたまたま観て、打ちのめされました。『12モンキーズ』は時間と記憶をテーマにしたSFで、人気俳優のブラッド・ピットが出てくるにもかかわらず、ラストは皮肉と批判が盛り込まれたバッドエンド。「なんだ、これは⁈」と、初めて映画に主体的な興味を持ったんです。

それでいろんな映画を観るようになって、夢中になったのが、若かりしデイヴィッド・フィンチャーやクリストファー・ノーラン、クエンティン・タランティーノらの作品。ハリウッドの中ではミドルバジェットで、独立性を保っている監督たちがつくる映画でした。エンタメとしても面白いけど、独自の考察があり、明らかにただの娯楽ではない。そこから徐々に、シネフィル的な作品も観るようになっていきました。

実際、ミドルバジェットの映画って面白い作品が多いと思います。ある程度の予算を確保し「売れなきゃ」というプレッシャーがありつつ、作家として表現したい世界もきちんとある。商業主義に振り切ってなんでもありの映画とも、低予算で監督の意志を100%反映できるけど観る人を選ぶ映画とも違う、葛藤から生まれた「中庸」の良さがある。そんなミドルバジェットの作品は、映画に関心を持つのに最適な“入り口”ではないかと思います。

室谷 私が小説を読むきっかけになったのは、小学生の頃に読んだ赤川次郎や星新一、あるいは中学生の頃に読んだ村上春樹や吉本ばななの作品でした。作家独自の世界があるけど、若い読者にも読みやすくて開かれている。そこから海外や近代の小説に興味に広がっていったことを思うと、映画以外にもいえることですね。

大高 そうなんです。一方で、そうしたミドルバジェットの映画を撮るのが、どんどん難しくなっているという現実があります。大ヒットを狙う商業映画と、もともと低予算でリスクが低い映画に比べて、ミドルバジェットの映画は一番リスクがある。良くいえば中庸、悪くいえば中途半端な存在で、経済的な余裕がないとお金を集めづらい。

逆にいうと、業界が豊かだったからこそ、ミドルバジェットの映画が数多く作れた。ここが薄くなるということは、遠からず映画に興味を持つ人が減ってしまう。

室谷 すごくわかります……。出版業界でもベストセラーを目指す本が目立つ一方で、コアな文学好きに向けた本や個人でつくるZINEが元気です。後者は私も大好きですが、でももし入り口としての「中間層向けの小説」が本屋さんにたくさん並んでいなかったら、そもそも文学と出合ってなかったかもしれない。

大高 多様性や豊かさのある社会には中間層の厚さが欠かせないというのは、いろんなところで言われていますよね。2019年に公開された2本の映画『フォードVSフェラーリ』(ジェームズ・マンゴールド監督)と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ監督)は、どちらもアメリカン・ドリームが崩壊した起点を描いていて、興味深かったです。アメリカ社会で中間層が薄くなり、夢を持ちづらい社会になる前夜を、“古き良き時代”として憧憬をもって描いている。

もう1つ、中間層が薄くなり二極化する弊害として、東浩紀さんがいう「誤配(メッセージが本来は伝わるべきでない人に間違って伝わってしまうこと)」が起きにくくなるということがあると思います。僕が映画好きになったきっかけは、まさに「誤配」でした。意図したわけではなく、偶発的にポンと飛んできたものによって違う世界を知り、ものの見方が広がった。

いまは情報源がネット上のレコメンドや同じ価値観の人同士のSNSで、自分と異なる趣味嗜好と出合いづらい。だからこそ誤配が起きるような場所や、ミドルバジェットの多様さ・分厚さを、意識的に残していくことが大切だと思います。

映画に限らず、政治信条やあらゆるところで、「中庸」がいちばん難しい。それをわかった上で、中庸であろうとすること。放っておくとお金の流れが細くなってしまうミドルバジェットの映画をあえて支援することが、文化や社会の豊かさにつながるんじゃないか。それが僕の思うところですね。

「行ったり来たりの経験から見えたこと」につづきます。

※写真はすべて友人である写真家の中村紋子さん@ayaconakamura_photostudioによるものです

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