もとをたどれば愛されたい愛したい
布団に潜りこみホッとして泣いたあの日のことを思い出していた。
あの日のこと↓
父が救急車で運ばれるまでの一連のことがあって、その不安と緊張状態から解放され、ホッとしての涙。
ただ、そのあとも子供みたいに泣き続けたのは、きっと母が迎えに来てくれなかったことが悲しかったのだ。思いの外ダメージがあったようだ。と、あれから数日たった今思う。
あの日から毎日のように、なにかあると泣いている。noteでみんなにかけてもらえる言葉がこんなにも私の心に届き、温かくなるのは、1番身近な存在の母からは突き放されたと感じているからかもしれない。
もう大丈夫だろうと思っていた昨日の夜、また泣いた。寂しくてたまらなくて、誰かの胸で泣きたくなった。ただ抱きしめてほしい。そう思うと、余計に涙が出て止まらなくなった。
そんなこと思う自分にびっくりした。
小川糸さんの『ツバキ文具店』『キラキラ共和国』を続けて読んでいたこともあるかもしれない。小川糸さんの書く物語は、ものすごく温かい。
何かの拍子に涙は止まった。
泣き疲れたこともあり、早々と布団に入る。
深夜2時前に目覚めて眠れず、布団の中で、寂しさについて考える。
この寂しさを自分一人でなんとかできるものなのかを考えだした。
自分で自分を抱きしめる。しっくりこない。
誰かがそばにいてくれるのと自分ひとりなのとはやっぱり違う気がする。そんなことを悶々と考える。
そして、ハッとわかった瞬間がきた。
ただこうして、ほんとは寂しいってことに気づくだけでもう十分だったのだ。
自分でしてあげられることはそれぐらい。
それぐらいといっても、私にはとても大きい。
寂しいって気持ちは、なぜか恥ずかしく、人に言うことはない人生だったような気がする。そもそも寂しいことにすら気づいてないことが多かったかも。
だから、そんな私は、自分の寂しさと向き合っただけでもう十分。そう思うことにした。
そして、寂しいときは、こんな風にできるところから表現すればいい。
寂しい気持ちは、愛されたい気持ち。可愛い気持ち。
でも、それを素直に表現できないとき、とんでもない方にいってしまう。
それは、憎しみにさえ変わる。
愛されたい気持ちは、ねじ曲がり、「死ね!くそババア!」に変換されもする。
学生の頃、母に向かってよく吐いたこのセリフ。
あーあれは、ただ愛されたかっただけ。
わかってほしかった。
私の言うことだってちゃんと聞いてほしい。
私の中をちゃんと見てよ。
今だから、冷静にあのときの自分のことを振り返られる。ようやくだ。
会話がしたかったのだとようやく気づいた。
そう、今になって。
元夫とケンカ(私が一人怒ってるだけ)になると、よく言われた。ちゃんと話がしたいと。怒らずに話をしてと。これ、私が母に対してずっと思ってきたことと一緒やん。
自分が、自分の寂しさに気づいて、それをわかってあげる。表現したっていいと思っておく。
変換せずにストレートに表現するのだ。
母に対してはできるのか?!無理!と今は思うのが正直なところやけど。
母とのことは、色々ある。
色々あったからこそ、生み出されたであろう愛しの子たち。
こちらもご覧いただけると嬉しいです。
(若干過激な表現もありますが笑)
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