魂を探る 【旅録】 in 京都 〜魅了させるオトコの生き様〜
【織田信長公本廟】
銀閣寺と金閣寺の総本社である相国寺。
その広大な敷地を抜けしばらく歩くと見えてくるのが
【織田信長公本廟】がある阿弥陀寺。初めは今の滋賀県大津市に創建されましたが信長入洛の際にこちらに移されました。
大正時代に宮内庁の調査で
【阿弥陀寺の信長公墓所は正式な廟所である】と認定されました。
境内は緑が美しい清掃が行き届いている厳かな空間。
お墓に向かい歩いて行く。すると、通路に沿って真正面に2つの墓石が目に入る。
右側に織田信長、左側は織田信忠。
2つの墓石サイドには森蘭丸一家の墓。背後には家臣たちが合祀された墓が並ぶ。
地方にある織田信長の墓地などでは見られない、死んでも尚、力強い関係性が伺える不思議な場所。
このお寺を開いた清玉上人の歴史について教えてくださったのは、お寺の方。
死に絶えた母親のそばで泣いている赤子を見つけ拾ったのが信長の父。そしてその赤子が清玉上人だった。
信長と共に2人は一緒に育つも彼が10歳の時、自身の素性を知り仏門へ進む。その後、修行を重ねた後に開いたのがこのお寺。この場所に移転した当時の敷地はとんでもなく広く、沢山の塔頭が立っていたそうな。
【 本能寺の変 】
信長の遺体について、探したが見つからなかったという史実やトンネル説など様々な憶測が出回ってる。何が真実か?
案内くださった氏に尋ねたら、阿弥陀寺に残されてる書物にはこのように書かれている、と説明くださった。
上人が本能寺に駆けつけたときは時すでに遅し。亡骸を見つけた上人は本能寺を燃やしてるその火によって荼毘に付し、その骨を拾い阿弥陀寺にて法要を執り行い墓を建てた、とのこと。
信長をまだまだ知らないお子ちゃまの私ですが、想いを寄せる者として…。彼の最期はきちんと取り扱われたと聞いて心底ホッとしました…m(_ _)m
本来、負けた武将は子供に限らず根絶やしにされ墓さえも掘り起こされ抹消される。そんな時代にこの経緯を見て見ぬふりをしてくれた人がいたのです。
そこには明智光秀の妹(もしくは姉)の御ツマキ(お妻木)が関係しているそうな…。
彼女は本能寺の変より10ヶ月も前に亡くなっています。真相を知りたいところです…。
法要も終わった後。このことを知った秀吉がお骨を分けて欲しいと寺に申し出たそうですが、上人は断りました。「人の道にあらず」と。
さすがは上人。信長が帰依した人です。一貫した態度に秀吉は激昂しました。
(のちに天下人になった際、阿弥陀寺の領地を大きく削り窮地に追い込んだのもこれが原因だったと言われています)
秀吉は、それならば、と、大徳寺に織田信長の像を置き彼独自に弔ったそうです。
【 信長の戒名 】
大徳寺は【総見院】という名前がついてますがこれは織田信長の戒名の頭の部分。
(骨はないかわりに)信長像を置き、信長の戒名の一部を寺の名前に添え、京都の街中が煙で覆われるほど線香を燃やし、この儀を執り行っている自分が信長の後継者であり天下人なのだと世に知らせたそうな。
【 奈良の大仏 造営 】
信長の存命中は正親町(おおぎまち)天皇を奉り、多額の資金援助を申し出ていた。
歴代の天皇は多額の資金援助を受けられず叶えられなかった譲位。熱望していた天皇は大変喜ばれた。
その後は信長同様、上人に帰依しさらに奈良の大仏造営にも関わらせた。上人は奔走し役を勤め上げた。
僧侶のお墓は皆一様にこのような形をしているものだそうです。宗派も生まれも関係なくこの形。
こちらも今後、詳しく調べていきたいと思います。
説明くださったお寺の方いはく。織田信長が好きだという人は東の人が圧倒的に多いのだそうです。本能寺と合わせて必ずこちらにも参拝されるとか。
そして、ここで説明を聞いた方は大徳寺にも足を運ばれる。
大人になってからの学びって…本当に楽しい。
そして…
改めて。織田信長に惚れ直すこととなりましたm(_ _)m
娘がいるカナダにまだ行けていません。ご支援頂けましたら、 カナダで会えたとき、2人の時間がより深まるように...。 大切に使わせていただきます。