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不思議な江川くん

同期の江川くんは不思議な人だった。

今から37年前のこと。わたしは24歳。
ある保険会社の本店で事務職をしていた。
高度成長期の真っただなかで、景気は右肩上がり。
ひとつの契約で、大きな金額が動く時代だった。

江川くんは京都から転勤でやってきた。
有名な国立大学を出ており、優秀な人だと聞いていた。

黒ぶち眼鏡。
二重の大きな目。
おじさんっぽい「だみ声」。
まだ24歳なのに「ぐふふ」と笑う。
声だけ聞いていると37歳くらいに思えた。
ーーーー

江川くんの伝説はいくつかあるが、
最も有名なのは「上野公園のお花見事件」だ。

土曜日の午後おそく(その頃は土曜日にも仕事があったのだ)
東京上野公園に課の全員(9人)でお花見に出かけた。

お酒や食べ物やビニールシートを用意して、桜の下で宴会を始めたころには、もう夜になっていた。
そして、公園にいるホームレスのおじさん達5人が私たちのそばに物欲しそうによってきたのだ。
服もボロボロだし、臭いもしていた。5人もいるとなんだか迫力があった。

江川くんはニコニコして立ち上がると、
「いやあ、いい夜桜ですねえ。せっかくだから、ちょっと歌いましょうかあ」と
例のくぐもったようなダミ声で
ホームレスのおじさん達に話しかけた。

「じゃあ誰でも知ってる、春よ来いにしましょう」
そう言って率先して歌い出したのだ

「はーーーるよ、こい、はーーーやくこい」
そしておじさん達に向かって
「さん、はい」
と呼びかけ、
前に立って指揮をはじめた。

5人のおじさん達は一斉に声を合わせて
「はーーーるよ、こい、はーーーやくこい」
と歌い出したのである。
江川くんの指揮も大振りで、しっかりと感情が入っている。
何より江川くんが一番熱心に歌っている。

「はい、もういちど!」
「いいですねえ、もう1回いっちゃいましょう」
3回繰り返して歌った。

課長を始め、課のメンバーはあぜんとした。
そして笑った。
最後は一緒に歌った。
おじさんたち、なかなかいい声をしていたのだ。

「やあやあ、お疲れ様でした」と
江川くんは缶ビールとおつまみをおじさん達にそれぞれ渡して、お引き取り願ったのだった。

江川くんが指揮をする姿、
夜の闇の中に浮かぶその背中を
40年ちかく経った今でも覚えている。

ひょうひょうとした感じで、仕事をこなす江川くん。
ときどき失敗をして課長に怒られていた。
どこか憎めない雰囲気があり、黒ぶちメガネとダミ声で取引先に気に入られていた。

「この人は仕事ができるのか、できないのか」
わたしはよくわからなかった。
ーーーーーー


ある日のこと、客先のN社の佐山さんから電話が入った。

当社の保険代理店の電話番号が知りたいという。
わたしは名簿を調べ、電話番号を教えた。

電話を切ったあと、大変な事実に気がついた。
代理店名簿を一行ずらして見ていて、
まったく関係のない電話番号を教えてしまったのである。

N社といえば、押しも押されぬ大企業。
当社との間で大きな案件を抱えており、大事なお客様だった。
しかも佐山さんは「役員が用事があるので教えてほしい」と言っていた。

「N社の役員が関係ある問い合わせに、間違った電話番号を教えてしまった」

胃が急に痛くなった。
佐山さんには何度かお会いしたことがあった。頭の回転が速く、さわやかな印象。いわゆるエリートだった。が、電話番号を知らなかった。

「どうしよう・・・・・、どうしよう・・・」

かかってくるかもしれない苦情電話の鋭い言葉が、勝手に脳内再生される。

まさかとは思うけど「おたくとは取引しない」なんて言われたらどうしよう。
部長も課長もあんなに気を使っていたのに。
3000万円?5000万円?
とにかく大変な損失になってしまう。

頭の中がぐるぐるになったその時、江川くんが営業先から帰ってきた。
そう、江川くんが N社の担当だったのである。

あつこ「ごめんなさい。間違った電話番号を佐山さんに教えてしまいました。ごめんなさい」
江川くんは黙ってわたしの話を聞くと、佐山さんに電話をかけ始めた。


江川くん「江川です。お世話になっています。
あの、先ほど我が社の女子社員に電話番号をお問い合わせいただきましたが、はい、そうです」

江川くん「 もう佐山さんは代理店に電話をされましたか。
あ、まだですか。
いえ、ちょっとお伝えしたいことがありまして」

・・・来る!ここに来る!こんな言葉がくる!!

いえ、実はですね
さきほどの女子社員がミスをしまして・・・
ええ・・・間違った電話番号を
伝えてしまったんです。
いえ・・・こちらのミスです。
こんなことが2度とないようにいたします。
本人も反省しておりますので…。
申し訳ありませんでした。
正しい番号は・・・
本当に申し訳ございませんでした。
(あつこの脳内再生文)


江川くんは、受話器を右手から左手に持ち直した。
そしてこういったのだ。

「おたずねの代理店ですが、
電話番号が変わりました。
ええ、そうなんです。新しい番号は・・・・・・」

ずっきゅゅゅゅぅぅうーん!


わたしの胸が撃ち抜かれた音がした。
椅子にへたっと座り込んだ。
思わず立ち上がったままで電話を聞いていたのだ。
ーーーーー

「ありがとうございます」
ほっとして、お礼の声がかすれた。
江川くんは
ちょっと照れた感じで笑った。
つられてわたしも笑顔になれた。

それからだ。
電話に特に気をつけるようになったのは。

「あつこさんの電話は感じが良くていいね」と
課長に個人面談で言われるまでになった。

保険会社は物を売ってはいない。
紙とペンと信用で成り立っている商売。
●電話では明るい声で、用件をきちんと聞き取り的確に返す。
●相手の気持ちにできるだけ添えるように想像力を働かせる。

江川くんの笑顔の瞬間から学んだことだ。

「ミスをした本人の気持ちまで考える」なんて。
しかも、誰も困っていない。会社の信用も傷ついていない。
61年間の人生を振り返ってみても、ピカイチでぐっと来た電話応対だった。

こうしてN社の大型案件は無事に成立した。
江川くんは、そののち出世して大きな支店の支店長になったらしい。
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4年ほど前、課の同窓会が開かれた。昔の課長が声をかけてくれたのだ。
懐かしい人々の顔があった。なんだかんだ言ってあの頃は若かった。

江川くんと会うのは28年ぶり。関係会社で働いているらしい。
メガネフレームはシルバー、
髪の毛の半分以上が白髪になっていた。
当たり前だけど年を取っていた。

「今一番はまっているのは、猫のトイレの掃除なんだあ」と
だみ声で言って
「ぐふふ」と笑った。

やっぱり…やっぱり不思議な人のままだった。

うん、江川くんはそうじゃなくちゃ。
妙な安心感とともに、私は家路についたのだ。
ぐふふ。

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去年の4月の再掲です。創作大賞応募のためもう一度アップしました。
若かったなあ。わたし。
江川くんはお孫さんに囲まれて、今も猫の世話にいそしんでいるそうです。ほんと不思議な人のままで嬉しい。それこそ江川くん。

江川くんにはもう一つエピソードがあります。

彼は結婚したその3ヶ月後に、こんなことを言っていました。

江川くん「結婚なんてくじ引きみたいなもんですよ。自分が死ぬときにペロッとシールを剥がしてみたら、その下に「大当たり」とか「大はずれ」とか書いてあるんですから」

この言葉を聞いたとき、私は20歳代後半。わけがわからないながらも、その表情と言い方がおかしくて大笑いしました。
ところが60歳過ぎて、この言葉が身にじわじわと染みてきています。

果たして、あつこは大当たりかな?大はずれかな?
実は、江川くん、優秀な人なのです。当時のことを思い出すと、思わずニコニコしてしまいます。
ちなみにあつこは今でも、電話応対をほめられます。相手を思いやる力はまだ衰えてないようです。

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