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林檎とは一体何であるか?

乃木坂46の34thシングル『Monopoly』のMVが公開された。

愛を独占しようとする遠藤さくらとそれに応えようとしない賀喜遥香の物語である。

そのなかで賀喜遥香は林檎を齧る。
あの林檎とは一体何であるか?

ファウストは神に仕えていた。従って林檎はこういう彼にはいつも「智慧の果」それ自身だった。彼は林檎を見る度に地上楽園を思い出したり、アダムやイヴを思い出したりしていた。
 しかし或雪上りの午後、ファウストは林檎を見ているうちに一枚の油画を思い出した。それはどこかの大伽藍にあった、色彩の水々しい油画だった。従って林檎はこの時以来、彼には昔の「智慧の果」の外にも近代の「静物」に変り出した。
 ファウストは敬虔の念のためか、一度も林檎を食ったことはなかった。が或嵐の烈しい夜、ふと腹の減ったのを感じ、一つの林檎を焼いて食うことにした。林檎は又この時以来、彼には食物にも変り出した。従って彼は林檎を見る度に、モオゼの十戒を思い出したり、油の絵具の調合を考えたり、胃袋の鳴るのを感じたりしていた。
 最後に或薄ら寒い朝、ファウストは林檎を見ているうちに突然林檎も商人には商品であることを発見した。現に又それは十二売れば、銀一枚になるのに違いなかった。林檎はもちろんこの時以来、彼には金銭にも変り出した。
 或どんより曇った午後、ファウストはひとり薄暗い書斎に林檎のことを考えていた。林檎とは一体何であるか?——それは彼には昔のように手軽には解けない問題だった。彼は机に向ったまま、いつかこの謎を口にしていた。
「林檎とは一体何であるか?」
 すると、か細い黒犬が一匹、どこからか書斎へはいって来た。のみならずその犬は身震いをすると、忽ち一人の騎士に変り、丁寧にファウストにお時宜をした。——
 なぜファウストは悪魔に出会ったか?——それは前に書いた通りである。しかし悪魔に出会ったことはファウストの悲劇の五幕目ではない。或寒さの厳しい夕、ファウストは騎士になった悪魔と一しょに林檎の問題を論じながら、人通りの多い街を歩いて行った。すると痩せ細った子供が一人、顔中涙に濡らしたまま貧しい母親の手をひっぱっていた。
「あの林檎を買っておくれよう!」
 悪魔はちょっと足を休め、ファウストにこの子供を指し示した。
「あの林檎を御覧なさい。あれは拷問の道具ですよ。」
 ファウストの悲劇はこういう言葉にやっと五幕目の幕を挙げはじめたのである。

芥川龍之介『三つのなぜ』

この芥川龍之介の体験を重ねた考察系二次創作のような著書のなかで林檎の問題を論じている。しばしば思われているであろう「智慧の果」としてだけではなく、その状況によって林檎は何であるかを変えてしまうのだ。

では遠藤さくらにとって林檎とは一体何であるか?前掲書のなかではこうも続いている。

わが愛する者の男の子等の中にあるは
林の樹の中に林檎のあるがごとし。
…………………………………………
その我上に翻したる旗は愛なりき。
請ふ、なんぢら乾葡萄をもてわが力を補へ。
林檎をもて我に力をつけよ。
我は愛によりて疾みわづらふ。

同上

あなたは林檎の樹のようで愛をくれた。それによって病んでしまったからこそ、葡萄の菓子で養って、林檎で力を与えて欲しいということである。

だとすればあらすじの通り、遠藤さくらの愛する者である賀喜遥香が林檎の樹となる。つまり、遠藤さくらにとっての林檎とは愛に病んだわたしに力を与えてくれるものであった。そうした遠藤さくらの意思=石と賀喜遥香の林檎があったからこそ、天秤は均衡が取れていた。

しかし、賀喜遥香が天秤から林檎を取り除いたことで均衡は崩れ、世界は砕かれていく。

遠藤さくらの意思=石だけが取り残され、賀喜遥香は葡萄の菓子と林檎を手中に収める。

賀喜遥香が不均衡を望んだ理由は、「やさしさの拒絶」でしかないと思う。感情という見返りを求めて安心することを否定する。そんな賀喜遥香が笑顔であるのは、山下美月のInstagramで語られていたように「顔は笑顔だけど目は笑わない」という不穏さの表れではないだろうか。

だから遠藤さくらは感慨が滾ってしまう。

番紅花の紅なるを咎むる勿れ。
桂枝の匂へるを咎むる勿れ。
されど我は悲しいかな。
番紅花は余りに紅なり。
桂枝は余りに匂ひ高し。

同上

(植物の種類は変わっても)たとえば、林檎の紅色や匂いを咎めることはないけれど悲しいのは、賀喜遥香の愛があまりにも綺麗で香り高いからだ。「やさしさを愛だと勘違い」してしまう原因はここにある。そうして林檎の取り除かれた天秤を見たあとに賀喜遥香のほうへと視線を移すことになる。

遠藤さくらは不均衡の世界に何を思うのか。

しかし、なぜエンドクレジットでは天秤に林檎は戻され、その側が重くなっているのだろうか。

たとえば遠藤さくらと賀喜遥香が均衡の取れた関係であったことは疑いようもない。ふたりが愛していたことはたしかなのである。芥川龍之介が愛した片山廣子もこう語っている。

 旧約聖書の一節で、ここには何の花のにほひもないけれど、二人が恋をしたことは確かに本当であつたらしい。イエーツの詩にも「わが愛する君よ、われら終日おなじ思ひを語りて朝より夕ぐれとなる、駄馬が雨ふる泥沼を終日鋤き返しすき返しまた元にかへる如く、われら痴者よ、同じ思ひをひねもす語る……」詩集が今手もとにないので、はつきり覚えてゐないが、女王もこれに和して同じ歎きを歌つてゐたやうに思ふ。

片山廣子『乾あんず』

それでも賀喜遥香には不均衡しか方法が無かった。

そうでなければならないのか?
そうでなければならない!

トマーシュは肩をすくめ、いった。
「Es muss sein. Es muss sein.」
 これは暗示であった。ベートーベンの最後のクヮルテットの最終楽章は次の二つのモチーフで書かれている。
Muss es sein?そうでなければならないのか?
Es muss sein!そうでなければならない!
Es muss sein!そうでなければならない! 
これらのことばの意味をはっきりさせると、ベートーベンは最後の楽章に次のような語を配している。”Der schwer gefasste Entschluss”(苦しい決断の末)
(…) 
パルメニデースとは違ってベートーベンにとって重さは何か肯定的なものであった。”Der schwer gefasste Entschluss”(苦しい決断の末)は運命の声(”es muss sein”)と結ばれていて、重さ、必要性、価値は内部で相互に結ばれている三つの概念であり、必要なものは重さであり、重さのあるものだけが価値を持つのである。

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

賀喜遥香は苦しい決断の末に天秤から林檎を取り除いたのであろう。そうでなければならない!という運命の声と結ばれて、重さこそが必要になり、重さだけが価値を持つことになる。

だから林檎のほうに天秤は傾く。その林檎とは違った形をした愛なのである。賀喜遥香の決断は遠藤さくらにとってあまりにも重すぎるのだ。

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