やさしさの拒絶
乃木坂46の34thシングル『Monopoly』の主人公は「やさしさを愛だと勘違いしていた」と言う。片想いであるはずなのに「みんなにやさしい君に腹が立つ」ということは気づいたら両想いであると、いつのまにか妄想している。そうした独占はどこか危険性を孕んでいる。
エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』では表題の通り、その事態が起こるときにこんな会話が交わされる。
僕だけが君を救うことができるという独占がそこにはあった。その偏執的なやさしさが拒絶されることで悲劇は起こる。だから「僕だけのものと思い込んでいた」という『Monopoly』の主人公にもその可能性が秘められている。
乃木坂46の『やさしさとは』では問いの答えが見つからずにただ歩くしかなかった。「ふいのサヨナラ」に対して慰めるべきだったのか?それとも何も理由を聞かないべきなのか?正しい答えではなく、いま信じられることを望んでいた。もし冷静になりすぎず「感情的に走れたら(バスの時間に間に合った)」良かったのかもしれない。その点で言うのであれば『Monopoly』の主人公はいまさら遅すぎるのにもかかわらず「全力で向かえば間に合うかな」とすでに感じている。
「間に合っても何て声を掛けるんだ?」と考えていることに期待をしていれば、「誤解を解く前に(一気に)君が好きだ」と言ってしまおうとする『Monopoly』の主人公は、やはり恐ろしい。『あの日 僕は咄嗟に嘘をついた』のように不確かな愛のせいで傷つくことを怖れていればどうなっていただろうか。それでも嘘をつくことができずに「ハートを独占したいんだ〜いつだって Monopoly」というのは、まさしく「僕は君の希望だよ」と同じように自己中心的なやさしさを与えようとしている。しかし、変わらない、と言われた。その意味を理解することを拒んでしまうのだろうか。「だけどそれをまだ飲み込めない」と言ってしまうのだから。
たとえば、やさしさを渇望する現代社会で『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』がアカデミー賞を席巻した理由は分からなくもない。とはいえ、あのやさしさという強さが拒絶されたときに『牯嶺街少年殺人事件』ような世界がたしかにあることを知っておきたい。
それは加藤泰の『骨までしゃぶる』の挿話(客に女郎が殺される)にも見受けられる。
つまり、日々の生活のなかでやさしさは殺されていくからこそ、やさしさを失わないために、やさしさを拒絶するのである。こうなれば、そこに起こるのは、犯罪でしかない。
やさしさで死なないためには?
精神的続編(電車に追いついた場合)にも思える乃木坂46の『君に叱られた』で「僕のどこが間違ってるんだ?」と話を聞こうとせずに答えを押し付けたあと「そんなのに世界を狭くしてどうするの?」という会話が交わされる。いつもはあんなやさしい君にちゃんと叱られ、それを素直に聞けたという世界線があった。そして「僕は謝ることより先に手と手を繋いだ」。遠藤さくらと賀喜遥香が手を繋ぐことではじまり、手を繋ぐことで終わる『Monopoly』とはある種の内省の物語ではないだろうか。
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