見出し画像

しりとり『クジラ』

前の記事名からしりとりします。『パラサイト 半地下の家族』便所コウロギの社会学→クジラ

クジラの刺身

僕の地元に『玉屋』という飲み屋がある。知人の家族が経営する店で、10人がけのL字型のカウンターと、4人がけのテーブルが5つ、20人は入れる座敷がある。酒も料理も特筆すべきものはないのだが、多くの常連で賑わう店内で、店員のおばちゃん達に絡まれながら酒を飲むという空間の居心地が好きでたまに顔を出すのだが、以前そこで”おばゆき”なるものを食べた。

調べてみるとクジラの身と尾と間のことらしく、真っさらな雪のような見た目と淡白な味わい、ふわふわした食感が特徴の、赤身肉とは全く違った美味しさを持つ刺身だった。日本が獲ったクジラを余すことなく活用してきたことは知っていたが、実際に赤身肉以外を食べたことは初めてだったので、よく記憶に残っている。

その時は、ああ美味しいな、程度の感想しか持たなかったが、クジラに関する歴史や文化をよくよくなぞってみると、クジラというものは僕らが普段食べている牛や豚・鳥とはかなり異なった動物であると言わざるを得ないことがわかってくる。

画像1

クジラと人

クジラは古今東西、世界中で畏敬の念を持って崇められてきた動物である。

日本においては古事記にもその記載があり、またクジラと言えば七福神の神様・恵比寿を指す言葉であった。

ヨーロッパではイッカククジラの角が伝説の生き物・ユニコーンの角だとされて薬として高値で取引されてきたし、ギリシャ神話ではクジラはポセイドンの使いとされている。また、人間がクジラになったり、クジラが人間になるといった伝承・民話も世界各国の文化に見ることができる。近代においてもアメリカのハーマン・メイヴィルの長編小説”白鯨”にて、白いマッコウクジラが神や自然・悪魔等、人智を超えた力を持つ存在として細やかに描写されてきた。

これは歴史上だけの話ではない。現代でも捕鯨問題は宗教をも巻き込んだ国際論争として各国間に摩擦を生んでおり、人類が今も昔もクジラという存在に、ある一種の動物という枠組みを超えた畏怖の念を持ち続けていることがよくわかる。

白長洲

クジラ信仰の正体

なぜクジラはこれほどまでに畏れられ、神格化されてきたのだろうか。

恐らく単純に、クジラが強大で、人には敵わない存在だったからだろう。

例えば狼もその獰猛さ故に神格化されて多くの神社で祀られているし、満月の夜に狼に変身してしまう人狼伝説は紀元前から言い伝えられてきた。クジラが人を殺してしまうことは今でこそイメージがわかないが、近代以前の頼りない木造の船で大海原に出た人が、船が壊れたり沈没したら死んでしまうという状況の中、最大25mにもなるクジラに遭遇した際に真っ先に恐怖と死を感じてしまうことは想像に難くない。

人に脅威を与える存在を人の高次元的存在とみなし、信仰することによって守護神としてしまおうという例は他にも多くある。菅原道真や平将門に代表されるいわゆる祟り神や、風神や雷神なども、自らにはコントロールできない不気味な存在に対する人の服従心の表れであろう。

この、偉大さや力を持つものを崇拝して服従することでその力を得ようとする欲求は、マゾヒズムと言い換えることができる。

”支配””服従”の両語を並べてみると加害者と被害者という二項対立な関係が連想されてしまうが、実のところサディストが存在しなければマゾヒストは満足できないように、両者は表裏一体の関係にある。何かを支配して自らの中に取り入れてしまおうというサディスティックな欲望は、何かと一体化して別の自分に産まれ変わりたいという意味で、何かに支配されて取り込まれてしまいたいというマゾヒスティックな欲望と何ら変わるところはないからである。

こう考えてみると、人がクジラを神格化し、その角を薬として摂取したり、変身してしまう伝承を生んだり、大した理由もなく殺してはいけない動物だとみなしてきたことにも納得がいく。その偉大な強大さを崇め奉って服従することを通じてその力を獲得したいと思う欲望が、クジラ信仰に繋がっていたのだ。

画像3

長いものになりたい

僕にも、そのような人間には敵わない偉大な力の一部になりたいという欲求があった。しかしそれはクジラのような”大きさ”への憧れではなく、”長さ”への憧れであったように思う。

3歳くらいのころ、僕はキリンに対して異常な執着を示していた。キリンの絵が描いてある安心毛布がなければ眠ることすらせず癇癪を起こしていたし、東山動物園に連れられていっては日が暮れるまでキリンの前から動こうとせず、両親をほとほと困らせていた。

これだけならば、ただ動物の中でキリンが好きだっただけの微笑ましい話になるだろう。しかし、違うんである。

この時の僕の将来の夢は、『はしご付きの消防車』になることだったからだ。とにかく、身体のどこかがどこまでも伸びてしまうような存在に、訳がわからぬ強烈な憧れを抱いていたのだろう。

今現在、キリンに興奮したりはしご付きの消防車になりたいとは思わないが、好きな時に手が伸びれば立ち上がることもなく部屋の本をとったり会社の資料を取り出したりできるので、便利だろうなとたまに思ったりはする。

画像4


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?