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「人生はギフトに溢れている」

仕事関連で手に取ったビジネス雑誌に載っていた、ある女性建築家の言葉にふと目が留まった。

「人って実は、みんなが誰かに親切にしたがっている。だけど、受け取る側はついつい『何か裏があるのではないか』と勘繰ってしまう。誰かが与えようとしてくれているギフトに気づいてそれを受け取れるようになれば、人生はきっと良い方向に進んでいく」

超有名で、超エリートなお方の言葉で、共感したなんて烏滸がましいけれど、なんとなくわかるような気がした。それに、きっとその言葉に目が留まったのも、「ああ、これは神様からのギフトだな」と思うものをたくさん周りの人や環境に与えてきてもらったからだろう。

ギフトってのは、輝かしい環境で、恵まれた何かを受け取ることを想像するだろうが、こと私の場合は、そればっかりでもない。なんだか悶々とした葛藤の中に射す一筋の光だったり、真っ暗闇の中を手探りで進む中のちょっとした感覚だったり、もがいてる時に出会ったりするものもあると私は思う。


ただ単に浴びてる日光だって、足元まで屈んでファインダーを除けば眩しい光だ。

ある雨の日、自分の仕事の悩みを初めて社内の人に何も誤魔化さずにまっすぐに話した。自分が大人になっている成長段階だからこそ、ついつい隠してしまう本音や戸惑い、持っていたはずの気持ちに知らず知らずのうちに蓋をしてしまっていた。「好きだ」という想いを持って始めたことのはずなのに、いつの間にか、その好きという気持ちが仕事を邪魔しているように思えて仕方なくなってきた。感情がなければ割り切って、スマートに仕事できるんじゃないかと思うような日もあった。


冷たい東京の街。ぜんぶ全部、街のせいにしてやろうかとすら思った。

でも相談した社内の人から、色々、大人になったつもりで諦めようといていたこと、溜飲を下げようとしていたことを「それは違うよ!素敵な感覚を持っているんだから大切にしてあげて。」と言ってもらえて、なんだかホッとした。それに、その人が私の考えを吟味して肯定してるんじゃなくて、「私自身が大切に思うなら、大切にしたほうがいい」と言ったように、ただそっと肯定してくれたことが嬉しかった。

写真好きでいいんだよって思わせてくれた写真部。

自分の中から消してしまおうとした感覚を、守ってくれた。自分で描いた未来の地図が不安になって、自分の手でぐしゃぐしゃに丸めて、涙を流しながら固く握った拳の中に閉じ込めたまま、捨てきれずにいた。けれど、優しく拳を解いて、ぐしゃぐしゃに丸めたものを破かないように丁寧に広げて渡し直してくれた人が、その人だったのだと思う。その帰り道に私は思った。この人は、神様が私にくれたギフトなんだ、と。その環境を選んだのは自分だとか、努力が足りないとか、そんな押し付けがましい結果論は気にならなくなった。この人がくれたものと、自分が持ってたものをもう一度大切にしたいという気持ちしか今も残っていない。

ギフトだ、と思って見上げた空を撮った。
そしたら、素敵な一枚をもらった。与えてもらってばっかりだ。

いつも光の中にいると、ギフトには気付けない。時には闇に飛び込んでいく覚悟が、私には必要だ。そうじゃないと、手元にある小さな小さな光にも気付けないし、眩しい光の中では方角を見失ってしまうだろう。

眩しい舞台の上に立っているんじゃなくて、暗闇の中であっても、自分で方角を探してどこかに辿り着きたい。

ギフトに溢れた人生と共にあるために、些細な光に目を凝らすように、誰かに与えてもらったものへの感謝に気づけるような感度の高い自分でありたいのだ。

コジキなので恵んでください。