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性の二重基準がぼくらにもたらしたもの、そしてそれを踏まえて夫婦関係をどう構築すべきか?

(この記事は単品100円ですが、最後の日記以外は無料ですべて読めます)

性の二重基準、ダブルスタンダードという言葉を聞いたことはありますか?

女性を「遊び相手」と「妻」に分けたり、「娼婦」と「聖女」に分けて考えたり、女性に対して、2つの基準を持つことを指します。

上野千寿子さんの「女ぎらい ニッポンのミソジニー」の中にこの話が出てきまして、また思うことがあったため、性の二重基準のついて考えたことを書こうと思います。

これは、夫婦関係を考える上でもヒントになるなと感じています。

性のダブルスタンダードとは?

性のダブルスタンダードを理解する上の、本書に登場するこのエピソードはとても理解がしやすいです。

明治時代、世の中は男性中心の家父長制であり、女性の権利はないも同然だったのですが、そんな中でも、男女同権を訴える男性の男女同権論者もいました。

植木枝盛も明治の男女同権論者として有名だったのですが、彼は各地で男女同権を訴える公演をしたその足で、夜になると遊郭で遊女を買っていたそうです。

しかも、それを本人が日記に書いているという。

日記に書いちゃダメだろと思うのですが、彼にとっては「なにいってんの?」という話で、そもそも彼にとって、遊女と男女同権の対象である女性とは、人種が違うと彼は考えているののです。

彼にとって、遊女とは「同権」の対象ではないといわけです。

それを証明するように、彼は自分の妻となるべき女性についてこう語っています。

徳が高く、学問があり、尊敬できる女性でなければならない。

階級が違う人間はそもそも人種が違うため、同じ権利を持っていないという思想が明治時代にあったのです。

ですが、これって現代にもまだ生きているんですよね。

ある芸能人が多目的トイレで不倫をしていたという事件がありましたが、彼はインタビューでこんなことを言っていました。

「そんなサービス(秘密を守れる女性が供給され、お金を払えば安全に不特定多数の女性とセックスができる)があるんだなと。それならば安全に遊べるなと(思った)」
「デートクラブで安全に遊べる子たちというふうに認識していました」
「妻と知り合ってから安全な遊び方を知り、そこから抜け出せなかった」

メディアはこの芸能人がセックス依存症であるだとか、妻と子どもがかわいそうだとか言っていましたが、単なる性のダブルスタンダードの話であり、ミソジニーの話でしかないのです。

彼にとって、供給される女の子は性交渉の相手でしかなく、自分と同じ権利を持っていると認識していなかったのです。

自分とは違う階級(売春婦)に属する女性だから、なにをしてもいいという思い込み。それが多目的トイレでの性交渉にまで発展したのでしょう。

性の対象カテゴリー女性を軽視するからこそ、妻とセックスができなくなる

江戸時代の男性は、恋愛関係(エロス)とは、遊女との間に生まれるものであって、妻との間に生まれるものではないと考えていました。

古代ギリシャの男性も、エロスとは同性間の間に結ばれるものであると考えており、しかも奴隷ではなく自由市民の少年を選んでいたそうです。

これも、異なる階級の人間を同じ人間として見ていないという証ですね。

現代の日本では、奴隷なんて存在しませんが、多目的トイレ事件のように、性産業に務める女性を異なる階級の人間と認識し、ぞんざいに扱ってもいいという意識が存在します。

これを突き詰めていくと、女性を「娼婦」と「聖女」に分断して考えるようになります。

自分の妻を大切だと思うようになればなるほど、そしてその人間に性のダブルスタンダードが存在するならば、妻をセックスの対象として見れなくなるのかもしれません。

妻を「家族としてしか見れない」、だから「(妻と)セックスができない」という感情は、「セックスの対象となる女性は階級の低い人間であるべきだ」「階級の低い性産業の人間だからセックスができる」という信条と裏表なのかもしれません。

一夫一婦制の定着と同時に売春産業が発展、性のダブルスタンダードはなるべくして生まれた

この性のダブルスタンダードの存在を裏付けるような歴史的事実の1つとして、ヴィクトリア朝時代のイギリスの文化が本書の中で取り上げられています。

歴史的に言えば、性の二重基準の成立は、夫婦中心家族として知られる近代家族の形成期に、同時に産業としての売春宿が成立することと、ウラオモテをなしている。(中略)

近代の黎明期であったイギリスはヴィクトリア女王の統治下、19世紀のはじめは、一夫一婦制の単婚家族と売春とが同時に制度として確率した時代であり、したがって「ヴィクトリア朝の」とか「ヴィクトリア時代の」という用語は、「偽善的な」と同じ意味で使われてきた。

ゴキブリを見ただけで悲鳴をあげて気絶するようなお上品な「淑女」をたてまつる一方で、売春宿に通う「紳士」があたりまえだった時代だからである。

一夫一婦制が制度して誕生すると同時に、売春産業が発展したというのは、なかなか面白い歴史的事実ですね。

「結婚相手」や「淑女」には「聖女」のような慎み深さや、貞節性を求めるからこそ、性の相手に特化した存在が必要とされたのかもしれません。

結婚相手がなかなか見つからない男性に話を聞いてみると、女性に対して過度な憧れを持っていたり、女性に対する神秘性を求めていたり、女性というのは性的に無垢で無知であるべきという思い込みがあったりするケースがあるので、それらが結婚相手を見つけることができない原因なのかもしれません。

そして、皮肉なことに、そういった女性をたてまつるような勘違いが、「性的になにをしてもいいという女性の存在」という勘違いを生んでいるのでしょう。

性のダブルスタンダードを持つ男性は、妻の性の道具として見るか、性の対象外として見るかの2パターン

性のダブルスタンダードを持ってしまうと、妻に対して「性の相手」としてみるか「母親のような聖女」としてみるかの二択になってしまいます。

「性の相手」としてみている場合、妻の人間性を無視している(同じ階級の人間と認識していない)わけですので、夫婦仲は破綻します。

そして、「母親のような聖女」としてみている場合、性の相手は「売春婦」と無意識に思っていますので、妻を性の対象としてみることができません。

性の対象として妻をみることは、妻を格下の階級の人間とみることであり、妻を大切に扱うことではないからです。

そして、性のダブルスタンダードは、無意識にうちにぼくら男性の脳内に刷り込まれていますので、ほとんどの男性はこのどちらかの思想にハマってしまいます。

正しい女性の性道徳とは?

大事なことは、女性に対して「過度な貞節」という幻想を持つことをやめることだと思います。

男性と同じように性欲はありますし、セックスを楽しむのは男性だけではありません。

ですが、「貫くもの」と「貫かれるもの」、性的な「主体」と「客体」という認識が、「女性も性を楽しめる」という事実を隠してしまうのかもしれません。

女性を楽しませるだけのセックスを意識し、継続することで、女性に対する誤った性道徳の勘違いを解くことができるのかなと感じています。

それから、男性が女性を選ぶのではなく、実は女性が男性が選んでいるのだという事実を知ることも重要だなとも思います。

まだ、ぼくにも明確な答えは見つかりませんが。

今日の日記

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