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【雑感】新大学入試の”悪問”を引き継いだ? ~2020年度茨城県立高入試・数学のこと~

既視感のある問題

今年度(2020年3月)行われた茨城県立高校の一般入試には大きな変化がありました。その中でも特に大きく問題が変わったのが数学です。色々と言いたいことはありますが、本稿では大問3の「悪問化」について書きたいと思います。

実際の問題はこちらです(東京新聞のサイトより転載させて頂きました)。

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読む必要のない問題文

コンピュータの画面。太郎さんと花子さんの会話。来年度から新たに始まる「大学入学共通テスト」の試行調査で見たような問題です。

大学入試に準じた問題を高校でも出題しようと試みることを完全に否定するつもりはありません。しかし、今回の出題にはいったい何の意味があるのか私には理解できませんでした。

というのも、この問題は、コンピュータ画面も、太郎さんと花子さんの会話も、どちらも一切読まずに解くことができます。もう少し言えば、5ページ目で必要な情報は最初の3行(もっと言えばAB=ACという情報)のみです。ほぼ6ページ目のみで解決できる問題です。読まないで解いた方が有利なくらいの問題と言えます(※1)。

このような問題を出題することは、言葉を選ばずに言えば、紙のムダではないでしょうか。そして、じっくり問題を読んだ受験生がいたとすればその受験生にとっては時間のムダだったのではないでしょうか(どのくらいの受験生が精読したのかは分かりませんが)。

もっと言えば、おそらく作問者の先生方も頭をひねって作成されたのだろうと思いますが、読まなくても解けるような問題を出してしまっては、作問者の先生方が費やした時間もムダになってしまうのではないかと思います。あまり言いたくないことですが。

(※1)補足しておくと、今回の出題の場合には、丁寧に読むことによって解きやすくなる面もありました。

太郎さんと花子さんの会話では2行目で「底角が等しくなる」ということが述べられています。この条件は書かれていなくても「AB=AC」という情報があれば予測できますが、それが今回は直接的に記述されていました。そして、この底角条件は(1)で必要となる条件です。

これまでならば「AB=AC」という情報を根拠に、底角が等しいという条件に変換して問題を解く必要がありましたが、今回は太郎さんと花子さんの会話があったために、その思考過程が不要になったと言えます。つまり、読んだ方が解きやすくなっていると言えそうです。

しかし、「思考力」を要するはずの問題が冗長な作問のために思考する必要がなくなってしまった(一歩後退した)とも考えられるでしょう。

大学入試でも同じことが起きている

どうして、「読まなくてもいいような」文章が含まれた問題がわざわざ出題されるのでしょうか。この答えは大学入試改革にあります。以下の記事ではこの点が詳しく書かれています。

数学教育の研究者で予備校講師の清史弘先生の記事です。新テストにて長い問題文が増えた原因についての指摘が紹介されています。

いくつかを抜粋して引用します。

 共通テストの試行調査の問題を見て多くの人の目に留まるのは、「長い問題文」の存在です。数学の場合、太郎と花子の会話が「数学I・数学A」「数学II・数学B」の両方に含まれます。...(中略)... 数学の場合であれば、「日常生活や社会問題を数理的にとらえること」が文科省の資料の中で目標に掲げられており、それに沿ったものということになります。
 どこが批判の対象になるかというと、問題文が長い割に中身がないということです。...(後略)【p.1】
 もう一つ高大接続システム改革会議の中である方が次のような趣旨の発言がありました。

「今の大学入試の数学の問題は、与えられる条件に無駄がない。つまり、問題文にある条件はすべて使う。これでは問題の解決のヒントになり現実的ではない」

 これは、一つの高校数学の問題を解いていて、それが解けないならば、まだ使っていない条件に注目すれば正解がわかってしまうということです。(後略)【p.2】
 そもそも、日常の生活の中においてもその中に潜む「数学」を見つけるには、いくつもの不必要な条件の中に埋もれている必要な条件を選び出します。そして、それを数式化して解決します。決して、すべての条件が必要というわけではありませんので、必要なものを「選ぶ」という「判断力」が必要になります。それを実現しようとして問題文が長くなったり、問題の解決に全く関係のない文章が含まれていたりします。【p.2】

太字は筆者による

清先生の紹介している大学入試改革で使われたロジックを高校入試の文脈に落とし込んでみると次のようになります。

①大学入試の方針にならって高校入試でも「日常生活や社会問題を数理的にとらえること」ができるような問題を目指したが、
②これまでの入試問題は、与えられている条件をすべて使うことが前提となっていたことを踏まえ、
必要な条件の「選択」に関わる「判断力」を問うために、
④会話文やコンピュータ画面を入れるなどして、その理念の実現を図った。

作問者が本当にここまでのことを考えていたのかは分かりませんが、こうした理念に照らし合わせて考えるならば、余計な問題文たちも決して「ムダ」ではない(?)ようにも思えてきます。

「ムダ」な情報がなくても問うことができるのでは?

ただ、個人的な見解としては、大学入試がどうであれ、今回の高校入試での長い問題文は「ムダ」だったと考えています。

なぜなら、今回変化のあった図形の問題(証明問題を含む)は、そもそも「情報処理」能力を要するので、わざわざ今回のような冗長な作問にする必要がないからです。

言い換えれば、(これまでのような)要点に絞った出題であっても、必要な情報と必要でない情報を取捨選択するような能力は測ることができると考えられるわけです。

実際、今回の大問3は非常に完成度が高い問題だったと思います。まず、(1)では二等辺三角形の底角が等しいという条件を用いる問題でした。一方で、(2)①では2つの辺が等しいという条件を証明に用いる問題です。すでに、用いる条件が異なっています。

そして、(2)②では(2)①の証明の結果、円周角の定理などを利用しながら二等辺三角形の相似を見出し、辺の比の条件から長さを求めさせるという問題です。(参照→2020年度 茨城県公立高校入試問題【数学】解説

コンピュータの画面がなくても、また、太郎さんと花子さんの会話がなくても、情報の取捨選択を十分に必要としている問題だったと考えられます。

そもそも、大学入試の文脈で述べられていた「いくつもの不必要な条件の中に埋もれている必要な条件を選び出し、それを数式化して解決する能力」というのは、必要な情報が一切含まれない”コンピュータの画面”と”太郎さんと花子さんの会話”を丁寧に読みこみ「これは不要な情報である」と判断することなのでしょうか。

むしろ、大問3そのものを解くために必要な能力、すなわち問題文で提示されている条件から、考え得る多様な条件を整理し、問題解決に必要なものを探っていく能力ではないでしょうか。

そして、余計な問題文のせいで時間がとられ、こうした能力を使う時間が削られてしまうことを危惧します。時間制限がある以上、すべての能力を一気に測ろうとするのは現実的ではありません。意味もなく長い問題文を読んで情報を選びとる能力が、本当に「数学」で優先して測られるべき能力なのか、高校入試でも大学入試でもよく検討される必要があると思います。

おわりに

今回の茨城県立高校入試の問題を解いたとき、茨城県で塾講師をやっている一人として「こんな形で大学入試改革の影響を受けるのか......」と非常に残念な気持ちになりました。

さまざまな考えがあって、今回の変化に至ったのだろうとは思います。ただ、その変化は本当に良い方向での変化だったのか、測るべきものは測れているのか、測りたいものは測れたのか、一つ一つの問題について批判的に検討していく必要があると思います。

本稿で扱った大問3については、コンピュータの画面や太郎さんと花子さんの会話を使わなくても、条件を選択する能力を測ることができる問題を作ることができたと思います。むしろ、個人的にはそうした問題こそが望ましい入試問題ではないかと考えています。

無論、大学入試も然りです。最後に清先生の指摘も紹介しておきます。

出題者は何かにとりつかれたような感じで作問しているのが見えます。大変ご苦労なことですが、やはり、共通テストは多くのものを盛り込もうとせずに、シンプルに基礎力をみることに徹した方がよいのではないでしょうか。今のままでは、目的通りのものには程遠い不良品です。

出典:数学教育の専門家が見た、大学共通テスト「記述式以外」の問題点<短期連載:狙われた大学入試―大学入学共通テストの問題点―>【p.3】


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