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【宝石商シリーズ5・6巻】君が美しいから彼は美しい

 宝石商リチャード氏の謎鑑定シリーズ、4巻までの感想を以前投稿したのですが、5,6巻の感想もまとめたいと思います。
 前回のnoteは以下の通りです。この作品全体の好きなところはこの記事で語りきった感じがあったのですが、半年経ってしまっているので新鮮な気持ちで書きました。
 構成も1~4巻それぞれ書いていった前回とは少し違う形で書いています。

 5、6巻は共通の要素が多いと感じていて、今回は気になった要素ごとに書いてみようと思っています。目次は以下の通りです。

0.はじめに 5,6巻全体の感想

 さて、まずは5、6巻それぞれ、全体の感想から。

 5巻・祝福のペリドットの目次は下の通りでした。

case. 1 挑むシトリン
case. 2 サードニクスの横顔
case. 3 ジルコンの尊厳
case. 4 祝福のペリドット
extra case. 聖夜のアンダリュサイト

 そして読了直後の感想はこんな感じです。

 怒涛の4巻に続いた5巻は、正義の就活ガイダンスから始まり、下村のお見送りから真夜さんとの出会い、という流れで、なかなか濃い導入でした。笑
 真夜さんといいシャウルさんといい、それから智代子さんといい、リチャードの過去を知る登場人物ががっつり出てきた巻でもあったと思います。
 リチャードがどんな風に思われてきたのか、どう変化してきたのか、彼を取り巻く人達がどんな価値観を持っているのか、リチャードの周囲からリチャードの人物像にまた迫ったような気がしました。読み終えて「“原石時代”の秘話、お話しましょう。」という帯に改めてため息をついてしまいます
 一方で正義も就活が始まるということで、下村をはじめとする大学の友人にどう思われてるか、お客さんにどう見られているか、そういった二人の外側からの視点が多く盛り込まれていた印象です。
 それからリチャードの過去を知った正義の、リチャードの幸せを願っている感じだとか、確実に示されているリチャードからのデレに違和感は覚えても気付けない正義だとか、4巻を経て少し想いの寄せ方が変わっている二人がすごく好きでした。

 続いて6巻・転生のタンザナイト。構成と、読了直後の感想は以下の通りです。もう読み終えてから半年経っていてびっくりなんですけど。。。

extra case. シンハライトは招く
case. 1 さすらいのコンクパール
case. 2 麗しのスピネル
case. 3 パライバ・トルマリンの恋
case. 4 転生のタンザナイト
extra case. シンハライトは招く

 6巻に関しては、5巻の要素を引き継ぎ、さらに4巻の構図を前提として最終章に持っていく流れだったなと感じています。
 あとはまた書きますが、私は谷本さんがすごくすごく好きなので、パライバ・トルマリンのエピソードで感動しましたし、これまでの集大成としてのとどめのような最終章でもう本当にぼろぼろに泣いてしまった。。。
 宝石商の登場人物たちは何というか、自身が繊細なくせに他人に対して妥協なく優しくて、胸に刺さる場面、言葉がすごく多かったです。まあそれはどの巻でも同じなのですが……!

 ただ1点だけ気になったのが、ツイートもしたのですが、セクシャリティが趣味・嗜好として扱われている箇所があったことです。もちろん正義の捉え方で、作品としての扱い方とは全くイコールではないと思うのですが、ただださえ性的指向と性的嗜好という同音語で混同されがちな部分なので、その点は少し残念でした。

 さて、改めて今回の感想の構成としては、以下に並べるようなテーマ別につらつらと感想を書いたあと、最終章については個別に書こうかなと思っています。

1.美しさとは認識する主体ありき
 (5巻:挑むシトリン、ジルコンの尊厳、6巻:麗しのスピネル)

2.愛やあなたの名前とそれ自身
 (5巻:サードニクスの横顔、6巻:パライバ・トルマリンの恋)

3.人の本質は変化
 (5巻:挑むシトリン、ジルコンの尊厳、6巻:パライバ・トルマリンの恋)

4.第一部最終章 転生のタンザナイト

 どうしても扱う章に偏りが出てしまうのですが、筆力不足でまとめきれないせいなので、上に挙げていない章の感想が読みたかった! という方には申し訳ないです。。。

 また、各章タイトルを略して宝石名だけで呼ぶことが多いですがあらかじめご了承ください。
 それでは本文の方に入ります。

1.美しさとは認識する主体ありき

▼主に扱う章
・5巻:case.1 挑むシトリン
    case.3 ジルコンの尊厳
・6巻:case.2 麗しのスピネル

 まずはシトリンから。
 真夜さんの言葉は全て印象的だったのですが、正義が零した「石は持ち主の心をうつす鏡」に対して返した言葉を下に引用したいと思います。

あのね、石も人も変化するものよ。でも、もっと言うならそれは、その石と人とを見ている人が変わるから、いろいろな魅力とやらを見せてくれはるのよ。でも人は何故か、自分やのうて周りの世界だけが変わってゆくよう考えとるさかい、取り残されるような気分がするのと違う?(p.30)

 「見ている人が変わるから、魅力が変わる」。「魅力は見ている人次第」「人は変化するもの」という要素のうち、後者に関してはまたこのあと書くので割愛して、ここでは「魅力とは見ている人(=主体)次第」ということを中心に掘り下げていこうと思います。

 真夜さんだけでなく、シャウルさんも同じようなことを言っていて、彼は正義に「美しいものを飽かず『美しい』と称賛する続ける才能」があると告げたあと、美しさについてこのように話します。

美とは『ある』ものではないのです。『見つける』ものなのですよ。美しい宝石を、より美しく育ててゆくのは、血の通った人間の眼差しなのです(p.206)

 正義の眼差しによってリチャードがいっそう美しくなった、と暗にいう言葉がこのあとには続きますが(笑)、それはそれとして、やはりこの言葉も、美しさとはその対象が持っているものではなく、美しいと認識する側によって発生する、と示しています。

 この感想を書きながら、「美しい」は「嬉しい」「寂しい」と同じように感情を表す言葉であると解釈しても理解しやすくなるかな、と思いました。
 嬉しさや寂しさは大抵それを感じる人に所属する感情だと思われていて、でも「嬉しいお知らせ」とか「寂しい部屋」のように名詞を修飾する言葉でもあります(形容詞だから当たり前ですが)。それは「嬉しくさせるお知らせ」「寂しく思わせる部屋」と言い換えてもいいわけで。

(このあたり、英語の動詞から派生した形容詞※を思い出しました。「美しい」に当てはまるものはパッと思いつかないですが……。
※元の動詞が「〜させる」っていう他動詞なので、satisfying/surprising/depressingなどそのまま能動態として形容詞化したものは「〜させるような」もの・ことに使われ、一方、satisfied/surprised/depressedなど受動態の形容詞は「満足した=満足させられた」「驚かされた=驚いた」と主体の感情を示す形容詞)

 えーと、日本語に戻って、「楽しい」とかもっと分かりやすいかもしれないですね。「楽しいイベント」と「美しい人」は文法構造として似ているように思います。
 つまり、「美しい」という言葉は、対象を形容すると同時に、「美しさを感じる」という主体の状態も示す言葉だと思っていいのかも。

 ……そんなことを思いながら6巻スピネルのエピソードに進んだら、何だかリチャードがどんぴしゃなことを言っているように感じて嬉しくなりました。

「どのような石であったとしても、それを『美しい』と愛でる人間さえいるのなら、極論ではその石は『宝石』たりうるのです。美しさも、愛しさも、輝きも、全てはその所有者の感じる個人的な心持ちでしかありません。もちろん資産形成などとは全く別の視座の話になりますが」
 リチャードは穏やかな声色で、言った。
「その石は、あなたの瞳に映るからこそ『宝石』になるのです」(p.109)

 この最後の台詞、初読の際あまりにぐっときました。強い。。。いや、何度でもぐっと来るんですけど。。。
 どんぴしゃだと感じたのは、ここでリチャードが「美しさ」「愛しさ」を並べていたからで、先ほどは「嬉しさ」「寂しさ」や「楽しさ」を例に考えていましたが、「その所有者の感じる個人的な心持ち」という言葉には深く納得できます。
 確かに「愛おしい」も「美しい」も、あるいは例えば「輝かしい」だとかも、心の動かされ方の種類なのかもしれないですね。そして動かされている心の持ち主次第で発生する価値なのだと。

 正義はリチャードのこの言葉を聞いて就活に思いを馳せたようですが、読み手としては、リチャードは、正義が自分を褒めるのは正義の瞳に映っているからだって思ってるんだ……と思いを馳せてしまいます。

 5、6巻では正義が周りからどう思われているか、正義自身の自己評価についても度々言及されています。
 正義は自己評価は低くとも周りと比べて卑屈になることはあまりないように思いますが、彼自身の眼差しの尊さに早く気付いてほしくなりますね。

 宝石商シリーズにはいつか自分を救うだろうと思わされるような素敵な言葉や価値観がたくさんありますが、他者に向けてきた称賛の分だけ自分自身の眼差しを肯定できるという、コペルニクス的転回みたいなこの考え方もそのひとつになりました。
 あなたの瞳に映るからこそ「宝石」になるのです、というシンプルで力強い言葉で、胸に刻まれたように思います。


2.愛やあなたの名前とそれ自身

▼主に扱う章
・5巻:case.2 サードニクスの横顔
・6巻:case.3 パライバ・トルマリンの恋

 今回扱おうとしているこの2つのエピソードは6巻までの中でもかなり好きなエピソードです。やろうと思ったことはないですが、好きなエピソードランキングを出したら相当上位に食い込むと思います。
 4巻でも谷本さんの「誰かを一番好きな気持ちの全部が全部、恋愛ってわけじゃないと思うし、そういうのを大雑把にまとめちゃうのは、私はあんまり好きじゃないな……」があまりに響いて、ありのままから変えることになるかもしれないのなら無理に決めないでいいと言ってくれるような優しさが好きだ、と感想で書いたのですが、そういうテーマを扱っているエピソードが好きなんだと思います。
(いきなり個人的な話をしてしまいますが、私は同性の友人とお互いが特別になりすぎて最終的に付き合うことを選んだ人間なので、それもあって、感情や関係性の名付けとか、名前が付いていることを前提とされるままならなさについても触れているこの作品に、どこか救われ、切実に惹かれる部分があります。)

 5、6巻としての感想、2つ目の章タイトルは「愛やあなたの名前とそれ自身」と付けてみました。
 先に結論から言えば、リチャードは家柄や容姿といった、生まれに関わる切り離しがたいものに悩まされ向き合わざるを得なかったひとで、だからこそ色々な愛や関係性について、形や名前に囚われず真摯な眼差しを向けることができるんだろうな、ということをここでは書こうと思っています。
 そして正義の、見返りを求めず、むしろ返ってくることを想定さえしていないような好意の在り方についても。

 引用箇所は、まず5巻「サードニクスの横顔」から。

「情というものをパーフェクトに色分けすることは、果たして可能なのでしょうか?」(p.80)
「人が人を愛しく大切に想う心に、絶望に至るほどの違いがあるとは、私は思いません」(p.81)

 この言葉がパライバ・トルマリンの前に出てきていること、本当に確実に関連しながら物語が続いている感に痺れます。痺れるし切なくもなるのですが。

 その違いはでも生殺しって言うんですよ、と返した乙村さんに、このあとにリチャードはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を引用しました。
 リチャードが引用したジュリエットの台詞を、ここではもう少し長めに紹介させてください。

モンタギュー家の人でいらっしゃらなくとも、あなたにはお変りはないはずだわ。
モンタギュー――なんですの、それが? 手でもなければ、足でもない、腕でもなければ、顔でもない、人間の身体についた、どんな部分でも、それはない。後生だから、なんとか他の名前になっていただきたいの。でも、名前が一体なんだろう? 私たちがバラと呼んでいるあの花の、名前がなんと変ろうとも、薫りに違いはないはずよ。(p.75 第二幕第二場)

 このシーンは有名な「どうしてあなたはロミオなの?」という独白から繋がっている箇所です。
 リチャードはこの台詞を、「恋人として好いている相手が大切に想ってくれてはいるけれど、恋愛感情をむけてはくれない生殺し」「半死半生(half dead)」に続けて、乙村さんの状況に対する「より適した言葉」として引用しました。
 その前に「人が人を愛しく大切に想う心に絶望に至るほどの違いがあるとは思わない」と話していたので、どう名付けられる感情であろうと、特別に想いであることに違いはないはずでしょう、という肯定のために引用したと考えられます。

 だけど元々の文脈は家柄に囚われる恋人同士の嘆きであって、名前から逃れられない状態において、名前は本質ではないだろうと訴える、悲劇の中の台詞です。
 どうしてもリチャードの過去と重なってしまって、なのにそれを人に前を向かせるための引用として持ってきたこと、ものすごく強靭で切ないと思ってしまうのです。

「世界は広くて、いろいろな人がいて、素敵な場所がたくさんあるはずなのに、私が住んでいい世界がどこにあるのか、本当にどこかにあるのか、まだわからなくて困るよ」(p.156)

 5巻、6巻では生まれついた環境や生まれ持った性質に関するままならなさについても度々描かれていますが、特に5巻、スリランカ時代のエピソードの中では深刻な問題が描かれています。
 上に引用したモニカが零す言葉と、これを受けてリチャードが思い出した、元恋人から告げられた「どんな世界でならあなたとうまくやれるのかしら」という言葉も、名前や家柄の問題として結びつけることができるでしょう。

 そして、生まれ持った切り離しがたいものと言えば、家柄だけではなく恵まれすぎた容姿もそうですね。
 こうして見てみると、家柄や容姿や能力に恵まれ、悩まされてきたリチャードが持つ、名前や形に囚われずにそれ自身を見つめられるような眼差しは、彼が彼らしく生きるために切実に必要だったものなんだな、と思わされます。
 乙村さんからの、老いによって自分の容姿が損なわれることについての質問に、リチャードは「私の顔を判じてくださる方が、それをきれいと言おうが、醜いと言おうが、それは私の感覚ではなく、私をご覧になった方の感覚です」(5巻、p.85)と返します。前章で挙げた美しさは主体次第、という価値観が一貫していることが分かりますが、様々な眼差しを向けられてしまったからこそ、その考え方に辿り着いたのでは、と思ってしまうのです。

 こういう揺るがない説得力のある価値観に出会うと、それが素晴らしいと思いつつ、それを身につけざるを得なかった背景に対してはそんな悲しい経緯はないに越したことはなかった、とも思うので複雑な気持ちになります。。。
 救いとは素晴らしいもので、だけど必要となる理由があって生じるので、その理由は存在しない方がよかった、だけどこの救いがあるからこそ、今後の人生のある場面で別の救いが不必要になるのかもしれないし、……みたいな。
 そのあたり、宝石商シリーズ内では誰かが救われた経験が別の誰かを救う場面も度々あって、そうした循環もこの作品に触れていたいと思う理由のひとつです。

 思いがけず救いが繋がった場面として、「エトランジェ」に来店した谷本さんと通じ合った場面も大好きなシーンなので、大好きな台詞を引用します。

正義くんの話を聞いて、ここは外国人の店長さんが素敵な宝石を見せてくれるお店だと思ってたんですけど、ここは自分のことを『エトランジェ』だと思っている人たちに、とっても優しくしてくれるお店なんですね(p.166)

 「エトランジェ」とは何らかのカテゴライズとその境界線を前提としていて(国籍、家柄や位、セクシャリティ、宗教…)、その境界線の外側にいる、と悩まされてきた二人がその点で通ずるのは、だからすごく納得できることです。
 カテゴリーに惑わされずに内面や本質を見つめようとする眼差しを持つ者同士の空間であれば、確かにマジョリティとマイノリティとを区別する境界はなく、自分がエトランジェだと突き付けられるような瞬間も訪れない。
 谷本さんがそういう場所に出会えたこともひとつの救いでありながら、そういう空間を築けていたということは、リチャードにとっても思いがけない救いだったんじゃないだろうかと思いました。

 さて、ここまでリチャードの話ばかりしてきましたが、正義の話をここからはしようと思います。サードニクスの章でも、もちろんパライバ・トルマリンの章でも、ひたすらまっすぐな言葉を届けた彼は、でも自分の好意について、相手から返ってくることをまるで想定していないように思えます。

 そう思わせるやりとりの最初、パライバ・トルマリンの谷本さんの台詞から引用します。

私は本当に二人とも好きだったけど、私の『好き』は、私が好きになる人を、あんまり幸せにしない『好き』なのかなって思います(p.158)

 そう溢した谷本さんに、彼女から向けられる好意と自分が彼女に向ける好意は違うけれど、その「好き」で「俺は幸せになってる」と返した正義。
 サードニクスで正義は彼女とどうなりたいかは上手く描けなくて、ただ「猛烈に自分が幸せになれるから『好き』」と言っていたこと、そしてリチャードの愛おしさ美しさは所有者の感じる心持ち、という言葉をここに繋げるなら、谷本さんの気持ち次第ではなくて、正義が彼女に愛しさをおぼえているからという正義側の問題で、谷本さんの「好き」で正義は幸せになれるんですよね。好きって言われたら嬉しいのはその人のことが好きだから、という簡単に言ってしまえば陳腐な気もする話ですが。
 ただ正義は好意については「誰かを好きってことの本質は、自己満足なんじゃないか」「好きな相手を幸せにできるかどうかなんて、もうパーフェクトに別勘定」(5巻、p.87)とも言っているので説得力があります。
(「幸せにできるかどうか」というよりは「幸せだと感じてもらえるか」と言い換えると、誰かを好きであることと相手が幸せだと感じることは別問題、と解釈しやすくなる気がします。)

「好きだからだよ。谷本さんが、俺を好きだって思ってくれるのと同じように、好きだからだよ。尊敬してるし、力になりたいし、全部のことがうまくいってほしいって思う」(p.178−179)

 正義は結局「同じように好き」と谷本さんに告げて、リチャードには「『恋人になりたい』じゃなくて、『恋人と同じくらい大切な存在になりたい』でもいいんじゃないかな」(p.184−185)と伝えます。

根元にある水源が『よい友達でありたい』であっても、『恋人になりたい』であっても構わないと思う。彼女の大切な人でありたいと思ったり、そのために努力したりすることは、絶対無駄ではないだろう。だって彼女が喜んでくれるのだ。(p.185)

 正義はこう自分に言い聞かせていて、かつ言い聞かせるまでもなく、彼自身が乙村さんに「どうなってほしかったんですか」と聞いて返ってきた答えと本当に同じように、「幸せになってほしい」と願っている。
 谷本さんだって正義のことが友達として大好きだから、谷本さん側の問題として、正義に好きだと言われたら、きっと彼女は幸せを感じることができる。でも彼氏になって、という「好き」は多分彼女を困らせるから、幸せにはしないから、「同じように好き」という言葉を、正義は間違いなく谷本さんの幸せのために使ったんですよね。

 それから、正義が「恋」をしているのだと伝えずに谷本さんが幸せになれる「好き」を渡したのは、「好き」は自己満足であるとかの考え方よりも、相手の幸せを優先しすぎるところにあるんじゃないかと思いました。逆に言えば、自分の幸せを考えていなさすぎるというか。
 自分の好意と好きな相手を幸せにすることがパーフェクトに別問題であるのはそれはそれとして、自分の好意が報われてほしいということを視野に入れていないんじゃないかとさえ思います。そもそも自分に好意が返ってくることを想定していないのでは、と思ったのはこのあたりでした。
 だからリチャードが「……そんなことを言うのなら、あなたも、もう随分長い間、私が支払うべきものを支払わせてくれない」(6巻、p.68)と怒るのだし、サードニクスでもし谷本さんから思いが返ってきたら「どうなりたいか」を想像できなかったのも、似たところに要因があるのかなと思います。
 そういう側面はいずれ最終章で腑に落ちることになりますし、リチャードに散々叱られることを知っているのでここでは深掘りしませんが。

 それに、自分を蔑ろにしがちな正義が、これでいいんだ、と言いながらも泣くことができたのは本当に切ないけれど、それだけ想える人に出会えたこと、彼が自分の感情を発露させられたことを思うと、尊いとも思ってしまうのです。

 とにかく、幸せになってほしいと願う気持ちや、だから水源が異なっても「同じように好きだからだよ」と伝えた言葉の、もっと深い水源が「彼女が好きで、彼女が幸せだと自分が幸せになれるから」という正義の自己満足だとしても、このときの正義は本当に、グッフォーユー、という言葉に値するし、いつかきっと自分が乙村さんに伝えた言葉を自分にも向けていいと気付いてほしい。

「……幸せでいてほしかったな。ずっと幸せでいてほしかった」
「じゃ、それ、乙村さん、成功させてますよ。めちゃめちゃ大成功ですよ」(p.89)

3.人の本質は変化

▼主に扱う章
・5巻:case.1 挑むシトリン
    case.3 ジルコンの尊厳
・6巻:case.3 パライバ・トルマリンの恋

 人の本質は変化、というのは実はこれまで触れてきた他の作品でも出会ってきた要素で、漫画『やがて君になる』の感想を書いたnoteで「変化や多面性を許す愛」というタイトルにしていたりします。宝石商5、6巻ではここでも出会った、と思う要素も多くあって楽しかったです。

 まずは前半でも引用した真夜さんと正義の会話をもう一度。

あのね、石も人も変化するものよ。でも、もっと言うならそれは、その石と人とを見ている人が変わるから、いろいろな魅力とやらを見せてくれはるのよ。でも人は何故か、自分やのうて周りの世界だけが変わってゆくよう考えとるさかい、取り残されるような気分がするのと違う?

 真夜さんの言っていることはつまり、認識する主体が変化し続ける人間である限り捉え方は変わり続けるのだから、石=物質的には変わらないものでも変化する、ということだと思います。
 リチャードがパライバ・トルマリンで谷本さんに説いた言葉も、人間は変化し得るものだと伝えるのに力強く説得力があり、とても印象的でした(とはいえ、主には自分を大切にすることが前提であると伝えたかった言葉ではありますが)。

生身の生き物たる我々にとって、その本質は膠着状態ではなく変化です。日を重ねるごとに時間を身に刻む生き物ゆえ、我々は均一な歯車たりえないのです(p.162)
大切なのは、今の自分が未来の自分へと連続し、繫がっているということを、変化の可能性をふまえつつ忘れないことです。今の自分を大事にすることが未来の自分を大事にすることにも繫がります。(p.184−185)

 私は変化が本質であるというテーマが好きで、それは変化が希望だと思っているからです。
 リチャードが正義に送った「あなたはあなたの望むもの何にだってなれる」(5巻、p.208)という言葉は、例えば「あなたは望むもの何にだって変わってゆける」と置き換え可能だと思います。
 大切なのは連続性と可能性をふまえて自分を大切にし、日々を積み重ねていくこと。――なぜなら変化する生き物である人間は、自分自身を自分の望む方向へ変えていくこともできるから。最終章に思いを馳せると、この言葉もまた切実に響くように感じます。

 変化に関しては、自分が自分を変えてゆけるということだけではなくて、誰かの影響で変わっていくということも描かれているように思います。
 これもまた同じ箇所の引用の繰り返しになりますが、シャウルさんの

美とは『ある』ものではないのです。『見つける』ものなのですよ。美しい宝石を、より美しく育ててゆくのは、血の通った人間の眼差しなのです

 という言葉がそれにあたって、これも「美しく育ててゆく」は「美しく変えてゆく」と換言できる。
 他者から見た様々な自分は絶対に同一ではなくて(主体が変われば認識される対象も変わるので)、誰に見られているか・誰といるかで自分は変わるし、しかもその一緒にいる相手も変化していく人間です。
 リチャードの美しさを見出した正義がそのことをリチャードに伝えた時点で、きっとリチャードから見える自分自身の輪郭は少し変わっている。だから「……あなたといると、前よりも少し、いい人間になれるような気がします」(6巻、p.182)というような言葉が出てくるのだと思います。
 彼の美しさに磨きをかけたのが正義だとしても、その正義もリチャードによって見出されて磨きをかけられていて、そして相手の眼差しを大切なものと思っている。

 俺という貝がらの中には、真珠は入っているのだろうか。
 入っているとしたら、それはどんな種類の真珠なのだろう。
 どんな種類でもいい。何か一粒でも入っていたらいいなと、俺は祈るように思った。そうすればあとは、宝石に詳しい宝石商に「これは一体何の宝石なんですか」と尋ねればいい。夢のような青い瞳は、きっと小さな粒を見定めてくれることだろう。生体鉱物どころか、つまらないゴミのようなものでしかないと看破されたっていい。
 自分自身の一番やわらかいところにある真実のかけらを、噓のない言葉で見てもらえるのなら、それは間違いなく、幸せなことだと俺は思うから。(p.71−72)

 誰もが自己を含む誰かや何かとの関係性の中で生きていて、生まれついた環境や生まれ持った性質が耐えがたい場合もあって、そしてそうではなくても望まない方向に変わってしまう可能性があるとしても、自分の望む方向に変わる可能性もあるということ、そして自分の望む方向に変えてゆける可能性もあるという意味で、やはり人間が変化する生き物であるということは、私にとっては希望だと感じます。
 何度目かの引用ですが、リチャードの「大切なのは、今の自分が未来の自分へと連続し、繫がっているということを、変化の可能性をふまえつつ忘れないことです」という言葉は、未来の自分自身に対する責任を今の自分が担っているということで、厳しい言葉でもありながら、それでも堅実な希望を持たせてくれます。

 リチャードと正義の出会い自体は偶然でも、二人がお互いに美しさを見出し、その美しさを磨くような関係性になれたのは、出会う前の二人が築いてきた彼ら自身のおかげでしょう。
 出会えなかった可能性があったとしても、出会える可能性もあるから二人は実際に出会えた。この世界にはこういう出会いが待っていることがある、という見方をしても、それは希望であるように思うのです。


4.第一部最終章 転生のタンザナイト

 取り上げたかった3つの要素を書いたところで、やっと最終章について作中の流れを追う形で書きたいと思います。

 直前で変化や可能性は希望と書いていましたが、この章はそこから落とすように希望ではない出会いから始まります。正義の心がどんどん蝕まれていく様は本当に読んでいて辛くなりました。

 特に中央図書館で谷本さんと会った場面、染野に対面していた自分のまま谷本さんに接したときの嫌悪感。
 立ち去った谷本さんに安心しながら、正義は「俺が本当に『遠くへ行ってほしい』と思っているのは、あの男なんだろうか」と自問します(p.209)。
 恐らく本当に「遠くに行ってほしい」と思っているのは彼が怖がっているものだと思うのですが、正義はそれを遠ざけたくともいずれ直面することは不可避であるとも考えているようです。

 怖いのだ。
 何かが怖くてたまらない。自分自身の中では、ほぼその『何か』に説明がついているのだが、それを明確に考えるのが怖い。どろどろした底なし沼を直視して、今からそこに飛び込めと言われているような気がする。見ても見なくても飛び込むことになりそうではあるのだが。(p.210)

 正義のこの感覚の根源の部分はこのあとリチャードに吐露することになりますが、正義は怖がっている「何か」について、手放しようもなく覆すこともできない自分の性質だと認識しています。
 彼はこの感覚のせいで自分を「普通の人間」だとは思えていなかったし、もう少し掘り下げていくと「誰かと並んで生きてゆける人間」だと思っていない。そのせいか、正義は自分が好きな人たち、主にリチャードのことを「天使」や「魔法使い」のようだと例えます。

あいつは羽を生やしたまま地上をスタスタ歩いているような、風変わりな天使だ。そして猛烈に美しい。その天使が、俺の宝物を持っていてくれている。
 これから先、俺がどんなところへ行くとしても、持っていてくれる。
 そして俺を待っていてくれるのだ。
 こんなに幸せなことはないと思う。
 例えそれが俺の概念の中だけの存在になって、もう死ぬまで二度と会えないとしても。(p.217−218)

 死ぬまで、という言葉に不安になりつつ読み進めると、「今の俺は自分が生きているという自信が持てない」(p.221)と思っていることが分かり、納得すると同時に危うさが一層強まります。
 このあと正義は「いいひとになったところで消えたいんだ」と思っていることをリチャードに明かしますが、「死ぬまで会えないとしても」「生きている自信が持てない」といった言葉がこの時点で出ていることからも、正義は自分が消えるべき時が来たと認識していた可能性があると思います。

 そしてこれがエトランジェでの最後の勤務、と覚悟を決めた正義と、彼を食事に誘ったリチャード。
 結局全てばれていて、正義になぜ頼らなかったのか、なぜ暗い方向に一人で向かおうとするのか説明を求めるリチャードに根負けした正義が零す言葉で、やっと読者は正義の性質の根深さを知ることになりました。
 この章の冒頭で「正義の心が蝕まれていく様」と書きましたが、彼は今回の件で消耗しただけではなく、もっと昔から、自分のことを「いつかいなくなった方がいい人間」だという前提のもとで生きてきて、……書いてて辛くなってきましたが。

 だからこそリチャードは自分も同じ人間だということを正義に訴えたのだと思います。説明してくれないと寂しい、と拗ねて見せたあとのやりとりを以下に引用しますが、一部私の方で太字にしています。

「本当におかしなやつだなあ」
あなたも面白い人ですよ」
「そうかな……ああ……ああ、本当に……魔法使いみたいなやつ……」
「私はただの人間で、あなたと同じく、とても小さな存在です。今日は少し怖かった。あなたがあなたではないようだった」(p.247)

 とにかく対等な人間として正義に寄り添おうとしている姿が「あなたも」「あなたと同じく」と言った言葉から窺えます。
 さらに「僭越なことを言わせてもらえば、わかりますよ。私には。あなた以上に」で膝をついて低い視線から正義に諭す。このシーン、リチャードが正義を通して過去の自分にも寄り添っているようで本当に好きです。
 そして、それでも腑に落ちない正義に対して、謎を解くのが得意な美しい宝石商は、道を踏み外すことなく明るい方を選び続けたことを「頑張ってきたのですね」と過去を含めて肯定する。
 そこでやっと、「全部ひっくるめて、それでいい」と信じてもらっていることを実感し、正義は「どうすればいいのかな」と前を向くことになります。

 ところでリチャードと正義が似通うように、谷本さんと正義も鏡のように感じる発言があります。この文章の2章目で言及した「私の『好き』は、私が好きになる人を、あんまり幸せにしない『好き』なのかなって思います」の部分です。
 正義は自分の好意について、以下のように認識しています。

 人並みに誰かを好きになることは得意だ。でも俺の好意が、他の人の好意のようなものではないのもわかっている。上のほうはきれいかもしれない。だが総体は違う。深く潜ってゆけば、どろどろした煮凝りのようなものばかりだ。(中略)むしろ自分の好意が、ジグソーパズルのピースのように、誰かとはまってしまうことが恐ろしい。(p.251)

 根源は違えど、自分の好意は相手を幸せにするものではない、と思ってしまっている点は共通しています。
 そして正義が心の底では「誰かとはまってしまうことが恐ろしい」と思っていたとすれば、彼が谷本さんに「谷本さんが俺を好きだって思ってくれるのと同じように、俺も好きだから」と伝えたことは矛盾しているようにも見える。
 ただ一方で、正義が谷本さんにあの言葉を伝えたことは、ジェフがリチャードに「あの子はとても苦しんできた子だから、お前の苦しみを見過ごせなかったんだね」(p.261)と告げたことも思い出させます。
 自分が似た苦しみを知っている分、他者の苦しみを見過ごせなかった、という共通した動機が見えますが、自分の好意をどう思っているかというところを越えて正義を突き動かすものなのかもしれませんね。

 また、自分の好意が誰かと合致してしまうことを恐れている正義が、それでも谷本さんにあの言葉を伝えられたことは、本当はパーフェクトに合致しているわけではないから伝えられたとも思えて切ないです。
 そして谷本さんに同じように好きだからだよと伝えても、正義は結局自分の好意を恐れ続けていることがしんどい。
 だけど彼が谷本さんにそう伝えたこと自体、また二人がそんなことを伝えられる/伝えてくれる相手と出会えたこと自体が尊いと思わされる箇所でもあります。

 さて、最終章のストーリーの流れに戻って、自分自身の暗い部分をずっと恐れていた正義は、その根源とも言えるような染野と電話することになる際、リチャードに「怖いですか」と優しく問いかけられます。
 ずっと怖かったのだと自認し、本当は何が怖かったのかと自問した正義は――リチャードが信じる「中田正義」を既に知った正義は――、怖さが引いていくのを感じ、「怖くないよ」と口にする。
 電話を終え、ずっと自罰意識の強かった正義も、軽蔑する様子の全くない二人に脱力し、自分が馬鹿みたいだと思いつつ「反省するのはもう少しあとでいい」と自責せずにいて、このあたり、正義の精神状態が復活してきたことが分かりやすく表れていると思います。

 このあとの馬場でのシーンはもう……泣いて大変だったし、あと私は学生時代に馬場のロータリーを何度も集合場所として使っていた人間ですが、何度挑戦してもあそこにジャガーが停まるイメージが……湧かない……笑
 何にしても、中田さんが登場して解決に収束していくこのシーン、改めて言語化するのも野暮な感じがするので深く言及はしません。 

 さて、もう一度ジャガーに乗り込み、リチャードが提示した最優先課題は「自分を大事にすること」。この言葉を正義が「新しいステップに進むための言葉」と解釈しているのもすごく好きです。

自分を捨てて誰かを助けることは、多分俺にはもうできる。でもこれはその後のことを考えていないから、相手の人にも喜ばれないだろう。(p.291)

 この言葉、改めてリチャードがスリランカでティアラのためにやらかした事件とも重なるので、リチャードが「鏡」と言うのも頷けます。
 本当にこの二人が出会えてよかったなあと何度でも思いますね……。

 そして「転生のタンザナイト」!

「正義、覚えていますか、タンザナイトの宝石言葉を」
「……『転生』だっけ」
「グッフォーユー。あれはあなたを新しい中田正義へと生まれ変わらせるのをお手伝いするマジックアイテムたる存在です。大事になさい」(p.298)

 リチャードはこう言いましたが、彼から正義に伝えられた言葉で、もう正義は生まれ変わり始めているも同然だと感じます。

 自分のことを誰かと並んで生きていける人間だと思えず、そうなる前に「いいひと」になって消えたいと思っていた正義はもう、誰より美しいと思える人から自分の駄目な部分も全てひっくるめて信じられていると知ったから。
 「頑張ってきたのですね」と認めてもらった自分が過去にいたからこそ今の自分があるということにも、正義はもう気付けるから。
 そして、自分を大切にすることを前提として未来の自分をどう変えていきたいのかという次のステップも、既に正義の中にあるから。

「いつになっても最後にはまた会おうって話も覚えてる。でも、最後だけじゃ嫌だ。これからも一緒にいさせてもらえるなら、傍にいたい」(p.298)

 そんな「最大級のわがまま」を言えるようになったのも、「転生」の第一歩だと思います。
 そしてそのわがままに「いいですよ」と答え、

「あなたといると随分息をするのが楽だと感じることが、時々、私にもありますので」(p.300)

 そう続けて別格の微笑みを見せたリチャードのその美しさも、誰でもなく正義が磨いてきたからこそ見られるようになった宝石だと思うのです。

5.おわりに

 「case.4 転生のタンザナイト」は6巻の最終章であるだけでなく、第一部の最終章でした。
 5、6巻をこうして振り返ると、いかに最終章の布石として様々な要素がそれまでに散りばめられていたのかと思いますし、きっと4巻までを読み返しても新しい発見がそれはもうたくさんあるのでしょう。

 この感想をまとめるまで第二部を読まない、という縛りで7巻以降は未読なので、これから読めることが本当に本当に楽しみです。笑

 とても長い文章を読んでいただきありがとうございました。
 それでは。


引用

シェイクスピア(1951)『ロミオとジュリエット』原典1594年、中野好夫訳、新潮社
辻村七子(2017)『宝石商リチャード氏の謎鑑定 祝福のペリドット』集英社
辻村七子(2018)『宝石商リチャード氏の謎鑑定 転生のタンザナイト』集英社

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