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ドローイング

僕は、美しい線が好きだ。0.2くらいの極細ボールペンの線も、油性ペンの太い方で書かれた波打つ線も、筆で書くかすれた線も好きだ。力の加え方ひとつで異なる様子になるし、望んでもまったく同じ線をかけないことに美しさを感じる。
このごろの僕は頭を掻き毟り衝動をぶつけたいとき、ノイキャンで苛立つ外界を締め出して、鼓膜が痛くならない程度の爆音で四つ打ちハードテクノを雑多に再生して脈の鼓動が増幅させながら、自分を守るように体をできるだけ小さく丸め、近くにあったペンで雑多な白紙に線を書き詰めることでストレスを発散している。書いた線はその時の自分が抱いている混沌とした闇、憂鬱、劣等感、苛立ち、恐れ、嫉妬、やるせなさといった一瞬に湧くネガティブな感情を写鏡として現す。それらを放置しておくと一定の期間に自分を締め付け続けとても苦しいので、体と心のなかから追いやって捨ててやりたいから線をかく。書いたものの一つひとつは僕にとって処理ずみで意味をもたないゴミだから、ぐしゃぐしゃに丸めびりびりに手で破いて捨てる。美しい線だと思いたいと思う一方で、23歳にもなって厨二病のように浸って書いている自分なんてみたくなくて捨てる。

僕の書いた、がらくたと言い聞かせている紙を見て、「いいと思う」と言ってくれる友だちがいる。今日はじめて会って、たまたま見てくれて「捨てたらもったいない」と言ってくれた友だちがいる。福岡市美術館のロスコ「無題」の解説に書かれていたようにこの線は僕の精神世界を投影したものなのだから、残すことで混沌とした自分と向き合う糊代を残しておこうと思った。まだ普段は目にしたくないので部屋の日常では触れない奥深くに眠らせとくとしようか、それともいっそ壁に貼って慣れちまうかなんて思い更けながら、喫茶店の開店時間を待っている。


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