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壁のその先

16時の古着屋にて

(前略)
引っ越して3日が経ったある日、ある人が私をイベントに誘ってくれた。
出会ったのは数少ない顔馴染みのお店の一室だった。
お店にいくと、いつも1時間くらいスタッフさんと話していたから、気づけば仲良くなっていた。
彼女はどうやら絵描きのようで、お店の一室を使って個展を開いていた。
私が挨拶をすると、どこからきたのと彼女と尋ね、門司ですと答えると、奇遇だねと彼女は答えた。
どうやら住まいは近いらしく、気分が高揚した私は若干食い気味に越してきたのが3日前なのだと補足した。
驚く表情も束の間に、「私、明日ね小倉でイベントするからおいでよ」と紹介を受けた。
門司の人もたくさん来られるらしく、皆んないい人だと言う。
イベントに来ると知り合いも増えるだろうと彼女は続けた。
私は二つ返事で参加の意思を伝えると、更けてくる頃だったからその場を後にした。

熱を帯びた空間

イベント会場につくと受付は列を成しており、参加者は室内から階段まで溢れかえるほどの人が集まっていた。
出会う人の多くはあの特有の方言を話していたので、やはり北九州の人が集まっているらしい。
会場は方言のほかに元気か、最近どうだ、とか知り合い同士が互いを懐かしむ会話が占めていた。
初めてここに訪れた私には久しぶりと声を掛けに行く人がいないことは最初から自明だが、いざその環境に触れると少し切なさを感じた。
感情が落ちつくと、前日に彼女が話していた言葉を胸に秘めて、自らの生活の幅を広げるために、周りにいる参加者に声をかけることを心に誓った。


思考癖

私は、私のことを臆病|《オクビョウ》だと思っている。
ふいに「ねえねえ」と肩肘張らず笑顔で声をかける人なんて見かけると、胸の奥深くがきゅっと締まって苦しくなる。体調によるが、3秒くらい息苦しさを感じる日もたまにある。
でもどうだろう。
もしかしたら、私が気づかなかっただけでその人は緊張していて全身を強ばらせていたのかもしれないし、「とんとん」と肩を叩くその瞬間までで一言目に発する言葉を悩んでいたのかもしれない。
のちのち時間が経って、よし振り返ろうと決意できたときの私は、
冷静になってその場面について考えることはできるが、あの瞬間の私は1人で踞る|《ウズクマル》ように小さく背中を丸めて目の前から目を背けていた。

牙持ち天使と善良な悪魔

「悔しい」
じわじわと体の芯から湧き出してくる感情は、徐々に一つの細胞から全身へと波及していく。
そして、私の理性を呑み込んでいくような感覚に陥った。
「逃げたい」
声をかけるなんて、どうせ私の実力ではできっこないんだ。
脳は悔しいという感情に占められる一方なのに、逃げたいという思いだけはかき消されることは
なく、それどころか叫び声となって私の耳にこびりついた。

立ち向かうか、目を背けるのか。
私は未だ手元に残っていた理性と脳を結集し、働かせられる限りにフル回転させると、
徐々私自身と目の前の人との間に壁がそびえたっていることを認識した。
どうやらその壁には少しの亀裂が入っており、ひと一人がちょうど通れそうな隙間が空いていた。
隙間の上には「登山口」と書いてある気がした。
私のいるところからは山頂はおろか、登るための道すらも見えなかった。
険しい道のりなのか、どの程度の標高なのかなど想像する材料はなに一つ手に入らない。
ただなんとなく、直感だけれど、私が思うかっこいい人たちは皆この道を歩んでいるような気がした。

脱皮

怖いからだろうか。私の脚はすくみはじめ、叫び声が脳全体を一瞬で丸呑みした。
そして居ても立っても居られなくなって、人混みの中を無心で掻き分け、正気に戻ったときにはイベント会場の外にいた。
ふっと深呼吸をするっと、私は手に入れたコンビニ酒を一気に飲み干した。
一口目は無機質で無味な酒だったはずなのに、二口目はタンニンのほろ苦さが口いっぱいに広がった。

『俺、緊張してたんだな』

糸がぷつんと切れる音がしてからは、さっきまで背負っていたものが軽くなっていて、
失うものはなにもない感覚が私を占めていた。

時刻は深夜2時3分。
飲み干した瓶を片手に握りしめ、再びイベント会場に向けて歩いたのだった。


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