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大学を卒業して社会人になった。卒業論文を提出して、卒業式を終えて、引越しをして、気づいたら社会人になっていた。小学生の時から「大人の象徴」だと思っている、あの「社会人」である。

実感なんてものはない。入社して1ヵ月で10連休が来たせいか、未だに学生気分である。社会人になったにも拘らず、取り組んだ内容が学生時代の復習や社会人としての心構え、会社の仕組みの説明など、自分が思い描いていた「仕事」とはイマイチ違うのも1つの理由だと思う。周りの先輩や上司が忙しそうにしている中、学生気分が抜けないまま「社会人」をやっている自分に、ある種の罪悪感を感じながら1ヵ月を過ごしてきた。この現象に関しては自分だけでなく、周りの新社会人も同じ気持ちであると思いたい。

社会人になって感じることは、ほとんどない。「職場の雰囲気が良さそう」とか「上司が良い人そう」とかの感想はあるけれど、それは新しい環境になったゆえのマジックというか、先輩たちも入社してすぐの自分に対して良く接してくれているだけであって。1年後2年後には、自分の目に写るものがまったく変わっているかもしれない。

ただ1つ言えるのは、4月に入ってからずっと「何かもやもやとしたもの」を感じている。忙しなかった年度末を送ったせいか、学生最後の1ヵ月を終えるためにするべき何かを忘れた気がしているのだ。頭の隅にある「何か忘れているな……」という感覚。長期連休が後半に入る今、その正体は「自分の中で区切ること」であると分かった。


「大学を卒業した」なんて小学生の僕が聞いたら、いったいどう思うのだろう。

小学生の時に描いていた人物像とは程遠く、大人になった感覚なんてこれっぽっちもないのに時間の流れは容赦ない。僕の心の準備なんか気にもしないで、さもないと「遅れるよ」と言わんばかりに刻々と進む。

気づいたらテストの日が来て、気づいたら夏休みが終わって、気づいたら2年生になって、気づいたら卒業して。大学時代一番使った言葉は「気づいたら」ではないだろうか。そう思うくらい、大学生の時は時間の流れを早く感じたし今でもそう思う。

時間はこちらの「ちょっと待って」という気持ちを少しも加味してくれない。それは2ヵ月前も同じで、学生→社会人という重大な区切りでもまた「気づいたら」だった。このステップが「気づいたら」でいいはずがないのに、いつの間にか朝6時に起きてスーツを着る生活を送っている。さすがに「ちょっと待って」と思う。

学生時代を顧みて「楽しかった」と思い、「よし、次に進もう」と心の準備をする時間がなかった。その余裕がなかった。大学3年生から4年生になるのとは違った、次のステップに進むための準備という、自分の中で終えておきたい儀式を行っていなかった。頭の中にあったのはそれだった。

別にしてもしなくても現実が変わるわけじゃないし、必ずしなければいけないことでもない。けれど、今まで環境が変わる度にしてきた儀式を今回せずにもやもやとしたものを感じると、自分なりに「ステップを踏む」という行為をしなくてもやっていけるような、肝が据わったというか器用な人間ではないんだなと思う。


大学を卒業するまでの日々で、たくさんの人・ものに出会い、触れて、感じることができた。全部が全部、今の自分を創るのに必要不可欠な要素で、なくてはならない存在だった。学科の友達、サークルのメンバー、バイト仲間、研究室の先生。友達とお泊りで笑い合ったこと、サークル大会の熱量、バイト先の活気、喫茶店のコーヒー、感情移入しすぎちゃう小説。そして、そうやってできた自分のことを、昔より少し好きになれた。

ずっと、たくさんの人に支えられて、救われて、助けられてきた。「ありがとう」という言葉だけでそれらのお返しになるとは思えないけど、今の自分にはそれしかできなくて、いつかちゃんとした形で恩返しできるように、この気持ちもエネルギーとして元気に生きていきたい。

今までずっと、アスリートや俳優がテレビで言う『周りの人々に感謝しかありません』が、嘘っぽく聞こえて仕方なかった。「好感度上げるための建前でしょ」とか「すごい人達がみんな言うから真似しているだけだ」なんて、小学生の時も中学生の時も、高校生になっても思っていた。

けれど大学を卒業した今、心から「周りへの感謝」を思う。今の自分が創られた過程で、友達や恋人、家族や先生に支えられてきた事実はたしかにあって、というよりそれしかなくて、「ありがとうございます」という言葉しか出てこない。周りへの感謝を「嘘っぽい」とか言ってた自分が「周りの人々に感謝」と言えるようになった理由は、なぜかわからないし何でもいいけど、そう感じられるようになったということは、少し「学生」から「大人」に近づけた証拠ではないだろうか。


新しい環境で新しい人と出会い、新しいことを始められるのは楽しみだしウキウキしている。けれど、その反対にやっぱり不安もあって、苦しい時に周りに助けられてしか困難を乗り越えられなかった奴が、これから先の社会人生活で大怪我をするのではないかと、1人悩んでいる。

「社会人=何でも1人でやっていけるスーパーマン」という定義を勝手に定めてしまっているからか、「1人で困難を乗り越えた経験がない」ということに対して不安しか感じられない。どうしても「苦しい時に支えてくれる仲間がいる」より「苦しい時に1人で乗り越えられなかった」という方に目がいってしまう。期待の気持ちもあるが、やはり不安である。ただ、歴代の先輩たちも同じような気持ち持ってたでしょなんて、自分なりにいい理由をつけて、「おそらく怪我をするから、頑張って生きていよう」と言い聞かせて、なんとかやっていけれたらいい。

社会人。今日までの日々と同じように、苦しみながらも乗り越えていけるだろうか。辛いことや苦しいことと同じくらい、楽しいことや幸せなこと、嬉しいことを感じられるだろうか。期待と不安を抱くこれからの社会人生活で1つだけわがままを言えるのなら、自分に素直になることができて、好きな人達には元気に生きていてほしい。

「1つだけ」と言いながら2つ出てくる自分を、昔から変わらないなと、少し愛おしく思う。

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