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分かるを急がない話

Aちゃんの日記、ほへぇ〜!!と読ませてもらいました
容姿が良い人も、それ特有の悩みがあるんだな
そんな中でもマツエク固執(からの脱却)話は興味深かった
美しい、可愛いと言われて育った人は
それが自信に素直に繋がる場合もあるだろうけど
反対に、それが自分の価値であるからその価値を維持しなければ!
と、美の呪縛に囚われてしまうことがあるんじゃないかと想像したりした

他人からの言葉って本当に怖い呪縛を形成するもので、それには若干身に覚えがあり、
ただ私の場合、美しいではなく「頭が良い」という言葉が呪縛になった

物心がついた頃から人より勉強ができた私は、
自我の確立過程で、頭が良い、賢い、と刷り込まれた結果
頭が良いことが自分の価値である、と思い込んで
正解を導くことや、良い成績を取ることなどに邁進した
ここからがAちゃんとは大違いで、とてもタチが悪いんだけど
自他共からの刷り込みで「頭が良い」が強固された結果、
何故か、それが万人の価値を測る共通モノサシである、という認識を誤育
頭の良し悪しで人を評価するようになってしまった
自分が勝てるであろう戦場に、勝手に他人を引き摺り込んで、
他人を自分より下だと(マジで勝手に)見做して満足するという脳内遊びを
長らくしていた本当にやべー奴だったな

時を経て(だいぶ割愛)、徐々にその病的な思考から脱却していき
改めて「頭が良い」って何だろう?と考えてみて一つ思うことは
答えを出すことより、むしろ答えや結論らしきものへの到達を急がないこと
つまり、問いや疑いを持ち続けるという
よく分かんない(不明確、不完全、不確実な)状態を許容する知的な体力
これが本当の賢さなのでは無いか、と言うこと
(この基準に照らすと過去の自分の愚かさが際立ってツラいけど)

我々はついつい、目の前のことに対して
正誤や善悪し、損得、美醜、賢愚…に二分し、
あるいは簡単に他人の気持ちを「分かった」りしてしまう
文脈抜きのサマライズされた短尺動画に飼い慣らされ、
分からないことは「ググれば?」と一蹴する
ただ、そうしたい気分の時こそ少し立ち止まって
世界を「分けて」しまう前に、
誰かや何かを「分かって」しまう前に、
結論づけるわけでもなく、思考を放棄するでもなく、
分からないというあわいを静かに咀嚼し、ゆらゆらと懐疑し続ける、
そんな力を養うために時間を使っていきたいと思っているこの頃でしたとさ

ちなみに現時点での意見なので、この辺はまた移ろいていくと思うけど
以下参考にした人たちとキーワードなので、気になるものあったら
今度ゆっくり話そ〜
ジョンキース「ネガティブケイパビリティ」
ブッダ「我癡・我見・我慢・我愛(四煩悩)」
アリストテレス「Golden mean(中庸)」
ソクラテス「無知の知」⇦あまりにも有名だけど

なんかこっちまだ少し肌寒くて
早く本当の夏来ないかなーと待ち遠しいけど
春と夏のどちらでも無い、この季節も楽しんでいこうかな


結論ファーストの文法圏で四苦八苦する
Zより


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