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”葛藤”こそが人生だ(村上春樹『約束された場所で』書評)
村上春樹氏がオウム真理教に入信していた人たちにインタビューした本がある。
この本では、オウム真理教に出家していた人たちが、どんな風に生きてきて、どんな経緯で宗教にはまることになって、そのことを例の地下鉄サリン事件の後にどう捉えているのかといったことが、細かく語られている。
その中で僕にとって興味深かったのは、オウム真理教にはまる人たちは「オウム真理教ではすべての疑問に答えが用意されている」という点にすごさを感じていたということだ。
例えば、あるインタビュイーは下記のように語っている。
(オウム真理教にいると)疑問もないんです。どんな疑問にも全部答えがあるんですよ。全部解けてしまっている。こんなことをやったらこうなるというようなね。どんな質問をしてもちゃんとすぐに答えが返ってきます。それですっぽりとはまっちゃったんです。
多くのインタビュイーが少なからず上記と通ずるような価値観の回答をしていた。
つまり、自分の中にある疑問に対して、オウム真理教の教義を照らし合わせると、全て納得できる答えが返ってくる。
その団体の中で偉い人に聞くと、全て明快な答えが返ってくるので、「この人たちはすごいぞ!」というところから心酔してしまう。
僕も気持ちはよく分かる。
生きていると疑問ってたくさん出てくるし、それに対する回答がほしいから人と話したり、本を読んだりしている側面はある。
ましてやオウム真理教にはまる人は、幼少期から現実社会に対するフィット感や適合度が低い人が多かったからなおさらなのだと思う。
でも、僕がその人たちと一つ異なるのは、僕は答えが一つではないことを知っている。
何か絶対的な答えがあるわけではないことを知っている。
世の中の多くの人が同じように思っていると思う。
でもオウム真理教にはまる人にはそれがない。
絶対的な答えがあると思っていて、答えがあることに安心してしまう。
そこに身を委ねたくなってしまう。
言い方を変えると、オウム真理教にはまる人は、葛藤がない人生を求めているともいえるだろう。
それがインタビューを読んでいる中で一番感じる違和感だった。
一般社会に生きている人は葛藤がつきものだと思う。
仕事とプライベート、お金と時間、育児と仕事、介護と仕事、などいろんなもののバランスに揺れる中で、いろんなものを犠牲にしながら生きているのが人間だと思う。
常にトレードオフ、つまり何を犠牲にして何を得るか、という難しい選択の連続に多くに人は向かい合っているはずだ。
僕だって葛藤だらけだ。
家業では、家族と仕事をするので、家族という繋がりと会社の経営陣という繋がりがあって、この2つの側面がぶつかるときにどちらを優先するかということに揺れている。
オウム真理教にはまる人は、そういった葛藤が人生の中で希薄な人たちに見えた。
だから、あるインタビュイーが答えていたが、泣きながら引き留める親がいても、「もう自分の心は決まっていた」と簡単にすべてを捨てて出家することができてしまうのだと思う。
そこに葛藤があまりに少ないのだ。あっさりしすぎているというか。
そのように葛藤がない世界を求めているから、オウム真理教のような”一つの考え方の中では完全な論理”に吞まれてしまうのだと思う。
村上春樹氏の言葉を借りれば、それは”小さな箱”の中で完全なだけにすぎない。
この世界は分からないことが多すぎる。
ある本によれば自分の人生の中で、自分の意思によって影響していることは1%も満たないらしい。
99%以上のことが自分の意思以外のことで決まっている世の中で、「疑問がない」なんてことがありえるだろうか。
むしろ疑問だらけだろう。葛藤だらけだろう。苦しいときもあるだろう。
それでも、答えを探して、自分の中で答えを見出していくのが人生なんだと思う。誰かが与えてくれた答えではなく。
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