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ぐるぐる話:第38話【我儘】 @4135


聡の胸に顔をうずめて、ひとしきり泣くだけ泣いて気が済んだ女将は、照れくさそうに顔をあげた。胸に飛び込んだときには、もう涙で視界がぼやけていてまったく気がつかなかったが、そこには3年前とは別人のようにつやとハリのある顔をした聡がいた。


どうしたの?肌が・・・すっかりよくなってるじゃない・・・どこへいっていたの?こんなにきれいになって・・・別人みたい・・・ねえ?みんな?


おそらく従業員も女将と同じ気持ちなのだろう。さっきまで畳にしおらしく正座していた全員が、首を大きく縦に動かしながら若旦那と呼ばれる聡のまわりに集まっていた。木綿子と龍之介ははじめて見る聡という男から、仕事ができそうで頼もしく信頼するに値するオーラを感じていた。


何も言わずに突然いなくなったこと、楓にも皆にも謝らせてくれないか?本当に長い間、留守にして心配させて申し訳ない。この通り・・・。


そう言いながら聡は両手と額を畳みにこすりつけた。


いいんだよ・・・そんなことは・・・あなたが生きて戻って来てさえくれたら、こんな嬉しいことはないんだもの。確かに、色々とたいへんなことだらけで実際にもう楓屋を閉めようかとも考えていたりしたけど、それはあなたがいなくなって、私一人じゃもう乗り越えられないような気がしていたからだし・・・。でもね、あなたさえいてくれたら、こんな状況だってきっと、皆に助けてもらいながら、なんとかやっていかれるって思ってるんですからね・・・。それより・・・いったいどこでどうしてらしたんですか?



久しぶりに会うせいか、夫だというのに、交わす会話がぎこちない女将だった。女将・・・楓は違和感を感じながら恥ずかしそうに、半分は親しげに半分はよそよそしく話しかけた。



うん・・・何も言わずにすまない・・・。楓が作った新しい食事の献立を食べ初めてから、少しずつ体調がよくなっていたことや、僕が幼い頃から、ずっとアトピーに苦しめられていたことは皆もよくわかってくれてるだろ?昔から長い間ずっとずっとステロイドを飲んだり塗り薬として使ったりしてきたけど、楓や皆が作ってくれる食事で本当に少しずつ体調が良くなってきたんだ。で、あるとき薬をのむことをやめようと思ったんだ。


すぐに体調がかわったよ。全身にかゆみがではじめて、皮膚は赤く腫れるし、毛穴という毛穴から黄色い汁が出始めた。楓との仲も、うまくいっているとは言えない状態だったから、何度か相談してみようか・・・とも考えたんだけれど、また余計な心配をさせるのも辛くてね・・・ネットであれこれ調べたんだ。そこで岐阜にある皮膚科に辿りついたんだ。


そこまで一気に話をするとマットーネのバッグから一冊の本を取り出した。


ネットであれこれ調べていたら、どうやら、僕がしたことはとっても危険なことだったことがわかったんだ。幼い頃から、ずっと長いこと薬を飲んでいたのに、素人考えで勝手に薬をやめることは、下手すれば死に繋がることもあったらしくて・・・この本にそうやって書いてあるんだけどね・・・そのことを知って怖くなったよ・・・。


そういって本を指差した。


あの頃、なんだか僕達の関係ったらそりゃひどいものだったろう?皆にも余計な気を遣わせて、すまないな・・・って思ってたんだ・・・僕が体調を崩したことも原因だと思うけど、このまま楓屋にいたらなんとなく悪い方向へ流れていきそうな気がしてね。


アトピーで苦しんでいる人たちに、こころから喜んでもらえる宿にしよう!なんて言っておきながら、そこの若旦那ともあろう僕がステロイド漬けの日々を送っている・・・っていうことにも少し抵抗はあったし・・・色々と調べるうちにこの本を出している病院にたどり着いたんだよ。


そしてやっぱりこの楓屋を続ける限りは、僕自身が薬なしでも生活できるように、きちんと治療しなくちゃいけないないんじゃないかなって考え始めたんだ。


もちろん、通院できるような場所じゃない。薬を抜く・・・脱ステって言うんだけどね・・・脱ステは食事療法はもちろん、身につける衣類なんかも天然素材がいいらしいって聞いてね・・・でもまさか宿屋の若旦那が女物の麻のワンピースみたいな出で立ちで宿の中をウロチョロするわけにもいかないだろ?


だったらもういっそのこと入院してしまえ!って思ったんだ。薬の副作用かどうかは判然としないけど、あの頃は視界も相当に悪くなってきていてね・・・そのことで何度か楓と言い合いになったことがあるだろ?覚えてるかい?


ええ・・・覚えてるわ。あなたが私に時間を聞いたときよね?忙しく動き回る朝げ時に、あなたが今何時だい?って私にいったのよね?忙しくてバタバタしてたから、ついイラッとして時計がすぐそこにあるんだから、自分で見てくださいな!っていった時のあなたの激昂をぶりに悲しくなったの・・・よく覚えてるわ・・・あの時?柱時計の文字が読めないほど目が悪くなっていたの?


うん・・・そうなんだ・・・でも話せばきっと心配するだろうし、宿のことでいっぱいな楓にこれ以上の心配はさせたくなかった・・・それに話したところで目がよくなるわけでもないんだ・・・だったら話さずにいたほうがいいかな・・・って思ってね。でも、今思えば、その考えは間違いだったんだろうな・・・って思うよ。



薬のむのを止めたことや、視界が悪くなってきたこと、体中が悲鳴をあげていたあの感覚にちゃんと向き合って楓にもそのことを話しておけばよかったのかもしれない。そうすれば、毎日あそこまで衝突を繰り返すこともなかったような気がしてるよ・・・。


で・・・なかばヤケになり始めていた頃・・・夜中に突然目が覚めてね、散歩に出たんだ。月がきれいな晩だった・・・月の光を感じながら歩いていたら無性に泣けてね・・・涙が止まらなくなったんだ・・・川の流れる音を聞きながら、月の光に照らされている楓屋を眺めたときにね・・・このままじゃいけない・・・そう思った。そしてそのままこのマットーネに財布とこの本と少しの下着とタオルと煙草だけを持って駅に向かったんだ。


そこまで言うと聡は目をほそめて楓を見つめた。


駅?駅って?那須塩原の駅?何時間もかかったでしょ?


ああ・・・4時間歩いたよ。丁度ね、始発の電車が動き始める時間だった。そのままその足で岐阜の病院へ行った。そして、すぐに入院することにしたんだ。



どうしてだまって?ひとことワケを話してくれたらいいじゃない?どれほど心配したと思っているの?それにどれほど心細かったか・・・



いまにも零れそうな涙をキラキラさせて楓がくちびるをむすんだ。



うん・・・そうだね・・・悪かったよ。でもね、もしも話をしたら、楓も僕のこの治療に巻き込むことになる・・・それが嫌だったんだ。ただでさえ宿のことで頭の中がいっぱいだというのに、そこに僕の治療でまたこころと時間を使わせることは辛くてね・・・言えなかった。でも言わなくて良かったと思ってるよ。



だってね、入院した部屋には、僕と同じ年くらいの会社勤めの男性がいたんだよ。その男性がね、週に一度お見舞いに来る奥さんに対して、まるで子どものように我儘な振る舞いをするんだ。奥さんは奥さんで、苦しんでいるご主人のためと思って、優しく辛抱強く接しているんだけどね、それがまたご主人の我儘を助長させて、結局その男性はなかなかよくならない自分の症状に業を煮やして、先生にまで噛み付くようになってしまった。


そのうちに・・・治療方針にまで口出しをするようになったんだ。脱ステでいちばん大事なことは、絶対に良くなるって、治療してくれる先生と自分の体を信じることだから、結局その男性は退院することになってしまってね。


でもね、男性がそんな風に身勝手な言動をとってしまうことも、わからなくはないんだ。一日中全身のかゆみとほてりに悩まされて、体中からは黄色い汁がのべつまくなし流れる。夏なんかはそのままにしていると、雑菌が繁殖してよくないからって、1日に何度もぬるま湯をあびて、そのたびにごわごわした麻のガウンに着替えるんだ。


布が体にふれるだけでも、全身ひびわれているから痛くてね・・・もしも楓が毎週あの病院へ僕の見舞いに来てくれたとしたら、僕もあの男性と同じように楓に向かって自分の弱さをぶつけてしまったかもしれない・・・もしそうなれば、あの時の僕らの仲では乗り越えられなかったかもしれない・・・なんて今になると思うんだ。


ステロイドの変わりに新しく飲んでいた薬があったんだ。あとは、その病院で独自に院内処方する薬・・・青ボチなんていうけったいな薬があってね、塗ると紫色になるんだよ・・・全身頭から足の先、顔まで紫色でさ・・・あまりにもけったいな姿だからね、何枚か先生に写真を撮ってもらったんだ。いい記念になるかと思ってね・・・あとで見せるよ・・・皆にもさ。そうするうちにステロイドは少しずつ体から抜けていったんだ・・・そして、それ以外の薬にも少しずつ頼らずにすむようになった。


たったひとりで入院したおかげで、煙草も苦労せずにやめることができたし、半分中毒になっていたようなドリンク剤も飲まなくなった。体の中から悪いものが全部抜けて行ったこの感覚はね、生まれて初めて味わう本当に気持ちがいい感覚でさ・・・


そこまでいうと聡は目から大粒の涙を零した。


ずっと辛かった。どうして自分だけがこんな風に苦しまなければならないのか・・・どうして・・・どうして・・・ってずっと思っていたんだ。でも、恐らくぜんぶはじめから決まってたんだろうな・・・って今になると思うんだ。幼い頃からずっとこの症状に悩まされることも、そのおかげで人一倍たくさん勉強できたことも、楓と東京でめぐり逢えたことも、楓屋でアトピーのお客さんに喜んでもらうことも、そのおかげで本気で治療に立ち向かうことになったことも、全部ぜんぶ最初から決められていたことなんじゃないかな?って思ってるんだ・・・。働いてくれている皆や楓には、心配させて苦労かけて申し訳なかったけれど、でもこれでよかった・・・今はそう思ってるよ。


頬を伝う涙を隠そうともせず言いながら微笑んだ。



【 第39話へつづく 4090文字 】



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