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ぐるぐる話:第37話【本当の闇】 @4978


女将の話を聞いている間、木綿子と龍之介はこの場に杏を連れて来なかったことを激しく後悔していた。それほど、女将から聞かされた話には、現在の日本の根深い闇があった。そして今この時代に生きている大人たちはみな、その大きな闇から決して目を逸らしてはいけないような気持ちにもなっていた。


女将の話はこうだ。




時はずいぶんと前に遡る。


昭和27年、女将が生まれたこの家は、まるで盆と正月がいっぺんに来たような浮かれぶりで誰もが笑顔の1日だったらしい。女将の父親である太陽は32歳、母親である柊は31歳。夫婦ふたりそれぞれ、子を持つことをあきらめかけた時のこと。
そのため、女将にとっては祖父母にあたる白髪頭の二人もまた、諸手を上げての喜びようであったそうだ。


女将の代で3代目となるここ楓屋は女将の祖父にあたる壱呉(いちご)と祖母にあたる琥珀(こはく)がはじめた宿であった。


女将の祖父、壱呉は日本中を旅しながら、当地の美味しいものや、美しいものを愛でることを何よりの喜びとする旅人だった。長い間、旅を続けることになるにはそれなりの理由があったが、壱呉はその生活を何より楽しんでいたし、既に両親を亡くしていた壱呉にとって、責任を感じるものは自分自身の身ひとつ・・・という生き方をそれなりに気に入ってもいた。


ある年の夏、女将の祖父である壱呉の下に同郷の料理人から手紙が届いた。無二の親友である料理人から届いた手紙、それは、東京永田町に開店する会員制の高級料亭で行われる内覧会の招待状であった。そして、そこが女将の祖父である壱呉と祖母である琥珀の出会いの場となったらしい。無二の親友である同郷の料理人はのちに、窯をもち、美濃焼きで人間国宝(正確には辞退)にまでのぼりつめたかの有名な美食家だった。


同じような境遇で育ったその有名人と壱呉は、他人が立ち入ることができないほどの深い絆で結ばれ、こころから互いを頼りに、互いに信頼を寄せながら年を重ねてきた。その無二の親友が、東京で店を開けるという知らせを手にしたとき、壱呉は誰よりも喜び、そして自分にできることがあるのなら・・・と、とにかく東京へ駆けつけたそうだ。


店の開店に関わるさまざまな人が出入りする中のひとりに、琥珀の姿を見た壱呉は、まるで落雷にあったように打ちのめされたという。ふたりはあっという間に恋に落ち、自然と交際がはじまる。そのことを誰よりも喜んでくれたのは無二の親友だった。けれど、それまで旅する先々でときどき日雇いのような仕事をしたり、撮影した写真を売って気ままに暮らしてきた祖父壱呉だ。生まれてくる子どもと、妻となる琥珀を養っていくにはまったく歯がたたない状況だった。


なんとしても二人を応援したい、のちの人間国宝は、人脈を駆使した。そして、山の中の使っていない家を彼らに与え、そこで小さな宿屋をはじめることを提案した。それが楓屋だった。


料することを生業としていた女将の祖母、琥珀にとって、小さな宿屋での仕事は限りなく幸せに満ちたものだった。また祖父、壱呉のほうも、旅先で感じたさまざまを自分の宿屋で実践化していくことに、この上ない喜びと手ごたえを感じていた。


はじめこそ、二組しか泊めることができないような小さな宿屋であったが、料理の素晴らしさや、館内にあふれる優しいこころ配りは人から人への確かな噂となり、噂は瞬く間に広がり、宿屋は3年に一度の改築をしながらどんどん大きくなっていった。


その間にも、無二の親友は窯芸研究所を設立して、本格的に陶芸の道を究めていき、いつしか東京銀座で展覧会を開くほどになっていった。もちろんその間もお互いに連絡をとりあいながら刺激をやりとりする間柄だったそうだ。


無二の親友は、1年に数回、仲間を引き連れて楓屋の湯へやってきた。仲間は来るたびに少しずつ増えていき、やがて楓屋はここいらでいちばんの宿屋となり、周りの宿屋から一目おかれる存在となっていった。


その親友であった美食家が東京の店を事実上解雇されたとき、ふたりはその親友を歓待し、裏山に窯を作り共に過ごすその時を楽しんだこともあったそうだ。


二人の間に生まれた柊は、すくすくと育っていった。婿をとり宿屋を切り盛りするためにと、東京の大学に進学し、のちの夫となる太陽と知り合う。大学を卒業すると同時に、柊は太陽を連れて楓屋に舞い戻ってきた。


太陽は建築家だった。そのデザインは美しさと同時に独創的で特殊な輝きを放っていた。小さなホテルやレストラン、また一般的な住宅などもデザインした。柊と結婚をして楓屋にきてからもその仕事ぶりは変わらなかったし、楓屋は太陽の1番大きな作品だという話だった。


楓屋の二代目は女将である柊が、そしてそれを影で支えるのが太陽だった。二人のあいだに生まれた現在の女将は、祖父母や両親の願いを込めて「楓」と名づけられ、蝶よ花よと可愛がられながらすくすくと育った。


その女将も母親と同じように宿屋を切り盛りするためにと、東京の大学へ通い、そこで夫となる聡と出会う。聡は大学で経済を勉強していた。子沢山の家に育った聡は、大学を卒業するとすぐに婿養子として楓屋に歓迎され、あっというまに楓屋に馴染んでいった。

祖父の壱呉と祖母の琥珀が他界したあとは、女将の柊をたすけるべく建築家の仕事を退き、楓屋の仕事ひとすじに打ち込む太陽、そしてそれを支える楓と聡の若夫婦だった。


楓(現女将)と聡にもなかなか子ができなかった。それでも、両親とともに、若い夫婦ふたりが力を合わせてする宿屋での毎日のあれこれは、何より楽しく清々しく幸せな日々であった。

ところが、20年ほど前、祖父母の親友がはじめたというあの店に招待された両親は、帰りの道中で不運にも交通事故に巻き込まれあっけなくこの世からいなくなってしまったという。そしてそこから楓屋の悲劇がはじまった。



それまで、両親のもとで見習い女将のような役回りをしていた女将が、両親の交通事故によりいきなり本物の女将に奉られた。とはいっても、まさかそのタイミングで商いのバトンを受け取る羽目になるとは思っていなかった為、女将と夫の聡は慌てた。そして、なかなか上手くいかない商いに、いつしか二人の仲は殺伐としたものに変わって行く。


それでも女将は懸命に戦った。回りから一目置かれていたはずの楓屋。しかし、祖父母の他界、両親の事故、思わぬ世代交代により今まで楓屋の活躍ぶりを面白く思っていなかった組合の長が、組合から抜けてほしいといいはじめ、それはいつしか組合全体の意向として楓屋を追い詰めていった。


組合を追われる理由には周りからの妬みや嫉みのほか、組織票に断固として加担しない・・・という楓屋の方針があった。


誰よりも研究熱心な琥珀の血を引き継ぐ楓は、若い頃からアトピーで苦しむ夫、聡のために、陰陽を食事に取り入れ、楓屋の食事のメニューは薬膳を取り入れてから熱が入ったものへとかわっていった。素材の仕入先も協会から推される業者から、独自に仕入れルートを手探りで開拓し、誠心誠意で食べ物に向きあっている業者に変えた。そのひとつがあのお米さんだった。


また、宿屋で使用するクロス、シーツ、タオルなども、業者まかせのドライクリーニングをやめた。自前で大掛りな洗濯機を購入し、石鹸での洗濯をはじめた。もちろん、浴室で使用するシャンプーやリンス、ボディソープなども、限りなく自然派で人にも地球にも優しいものへと変えた。


安心して安全なものを味わっていただく、そして、安心してすべての体験を楽しんでいただくこと・・・それがここ楓屋が信念とする方針で、それらをお客様にお届けすることを何よりの喜びとしていたはずだった。

ところが、3年ほど前、突然、夫の太陽が楓屋から姿を消した。女将には何も告げずに、ある朝起きたらその姿がなかった。そして、その日から3年ものあいだ音信不通で、生きているのか死んでいるのかさえわからない状況が続いているという。


けれど泣き言をいうわけにはいかなかった。宿屋のお客様は待ってはくれない。冷蔵庫の中の食べ物は、日々、新鮮さを失っていく。25名の従業員を路頭に迷わすわけにはいかなかった。ひとりでなんとかするしかほかに道はない・・・そう腹をくくり今までやってきた。


現在、たくさんの人が苦しむアトピーは、原因不明の・・・とか不可思議な・・・とかそんな意味合いの言葉らしいが、人体に有害なものをできる限り排除した宿屋・・・それが現在の楓屋だった。かなり重症なアトピーであった夫の聡の体調も少しずつよくなっていたはずだったのに・・・。


仕入れ先の独自性や、無くなった祖父母の無二の親友が残してくれた様々に助けられて、どうにかこうにかやってこられた。けれど、組合を抜けた丁度そのあたりで、働き方改革による様々な法案の変更があった。組合加入者はそれらの法案をクリアすべく煩雑な対応に追われることになったが、組合に加入していない女将には、変更となった法案があることすら寝耳に水だったらしい。


休息、休日、有給、残業、就業規則、などなど、あれほど研究熱心だったはずの楓は、夫の太陽を失ったことでいつしかその情熱をどこかになくしてしまったようだった。


そんな中でも、組合に加入している宿屋からの嫌がらせは続く。謂れもない噂をばらまかれたり、ときには、寝静まったころ温泉の湯の中に泥を投げ込まれたこともあるそうだ。また、独自の仕入れルートだったはずの業者が、いつの間にか組合加入の宿屋全体に知れ渡り、みな、同じような料理を出すようになったという噂も聞いた。


誰にも相談できず、ひとり悩んでいるときに例の黒田節事件があった。藁にもすがる思いで、すみれの体を集客のために使ったそうだ。


女将は一気にそこまで話をすると両手で顔を覆って咽び泣く。木綿子も龍之介も何も言えなかった。


すると、そこへ従業員がぞろぞろと入ってきた。全員が神妙な面持ちだ。木綿子と龍之介にむけて深々と一礼すると、いちばん年長者と見られる板長が一歩前に出た。「ちょっとよろしいですか?」と言いながら手で拳をつくり畳の上に膝をつき正座。後ろに控える従業員全員がふたたび一礼して年長者と同じように正座して姿勢をただした。



ここにいる従業員全員を代表して、私からも少しお話させていただいてよろしいでしょうか?


板長は低いけれど、どこか優しげに感じる声で話しはじめた。


男性の話によると、ここ楓屋で仕事をしているものはほぼ全員が、何らかの理由があって借金を抱えているらしい。そして、借金とりから逃げるようにここ楓屋へ駆け込み、その借金を一時的に女将が立て替えて支払いを済ませてきた。そしてその日からみな、楓屋で仕事をしはじめる・・・それがここ楓屋で仕事をするもの達に共通した事情らしい。


借金が終わればみなここから出て行くことも可能だけれど、恩人のもとを立ち去り難い気持ちと、どうにかして女将を支えてあげたいという想いから全員がひとことも文句を言わずに仕事をしているというのだ。


確かに、睡眠時間が少なく辛く感じる日はある。けれど、そんなときは、必ず女将が労いの言葉をかけてくれるし、残業をすればしたぶん早く借金も返せるというもの・・・という気持ちがあるので、働く時間がいくら長引こうとも誰も気にしてはいない・・・ということだった。


ようやく女将の涙がとまる。泣き腫らした真っ赤な目にうつる従業員はみな、だれもが女将に向けて優しい眼差しを向けていた。


木綿子と龍之介のほうへ向き直る女将。木綿子と龍之介の目にもいつしか涙がこぼれそうになっている。はじめから悪人である人などいるはずはない・・・ふたりとも同じことを思っていた。けれど、では、いったいどうすればいいのか・・・木綿子と龍之介が考えあぐねていると、従業員たちがなにやらざわつく。


見たことのない男性がピンクのオックスフォードにベージュのヘリンボーンジャケット、こげ茶のフラノパンツという、いかにもという出で立ちで立っていた。


と同時に


「若旦那!」


という声が一斉に沸き起こる。振り返る女将・・・顔をくしゃくしゃにして男のもとに駆け寄ると大きな胸に顔をうずめ、声を殺し肩を震わせて泣き崩れた。



第38話へつづく



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