SAKE DIPLOMA 試験対策を「超える」対策 その2-4 【日本酒の歴史】

こんにちは。

「あと」です。

更新が遅くなってしまいました。

というのも、今回も引き続きの歴史編なのですが、調べれば調べるほど奥が深くて・・・。SAKE DIPLOMA試験の勉強が、いかに入口にすぎなかったかを思い知らされております。

特に明治以降の近現代に入ると、試験勉強の際に記憶しておかなければならない出来事や年号がドンドン増えてきます。そうするとどうしても暗記偏重の勉強にならざるを得ず、時代背景や出来事同士の前後のつながりまで深く理解する時間は奪われていきます。しかし、今回の記事を書くにあたり、そうした暗記偏重の勉強の弊害を実感しました。それぞれの出来事がどのような背景の中で起こったのかを知らなかったのでは、見落としていた点も多かったのだということを痛感したのです。なんなら、それを知っておけば、試験勉強の際の暗記のスピードも変わっていたのではないかと私は思います。

そこで、私自身の脳味噌を整理するためにも、歴史編最後となる近現代パートにおいては、これまで以上に時代背景や前後のつながりを意識して記述を進めていきたいと思います。

江戸時代までの長い時の流れを経て商品として完成した日本酒。それを受け継ぎ明治·大正·昭和·平成を生きた人々が、自らの生活の中で酒あるいは酒造りとどのように向き合ってきたのか。なぜ酒は造られ、消費されてきたのか。令和を生きる身として、先人たちからの伝統のバトンをしっかりと受け取っていきましょう。

認定試験の受験を考えている方も、ただ機械的に年号や用語を覚えるより、「なぜその制度や技術が必要とされたのか」「なぜその時代にその出来事が起こったのか」を知っておくと、暗記もグッと楽になるのではないでしょうか。その一助になれるよう、気合を入れて筆を進めていきたいと思います!!ラストスパートや!!!!


1.明治時代の日本酒

長きに渡った徳川幕府による治世にも終止符が打たれ、明治時代の幕が開きました。西洋諸国と相対していくために、日本は近代化への歩みを早めていくのです。

日本酒造りにも、近代化の波は及びます。それまでの酒造りは、腐造との闘いでもあり、再現性に乏しいものでした。そのような不安定な酒造りから脱却し、科学的に再現性の高い安全醸造を実現することが、まずこの時代においては最重要課題だったのです。

こうした要請に応えるかたちで、国家規模の研究開発が進みます。大蔵省の監督下に国立醸造試験所が作られ、その翌々年に同試験所から日本醸造協会も発足。これら機関が中心となり、山廃酛や速醸酛(それぞれの解説は別項で!)といった先進技術が開発されます。また、のちの山田錦につながる山田穂をはじめとする種々の酒米開発も積極的に行われました。

日本醸造協会主催の全国清酒品評会や国立醸造試験所主催の全国新酒鑑評会といったコンクールの場も、元々はこうした研究の成果を測ったり、酒蔵同士の情報交換の場を設けるという意味合いも含めてこの時代に始まったものでした(前者が1907年、後者が1911年にそれぞれ第1回を開催)。

この、安全醸造実現への歩みにおいて注目された要素のひとつが、酵母でした。明治以前の酒造りにおいては、各蔵は自らの蔵に住み着いていた蔵つき酵母を使用して酒造りを行っていました。しかし、それでは不安定な酒造りにつながり、安全醸造とは程遠いものとなってしまいます。そこで、日本醸造協会は「よい酒質は、よい酵母から」という考えに則り、全国各地の厳選した蔵から優良酵母の分離を試みます。これが、現在まで続くきょうかい酵母の歴史の始まりです。

当初は、市場で評判が高かった灘および伏見の蔵から酵母の分離が行われました(きょうかい1号酵母は灘の櫻正宗、2号酵母は伏見の月桂冠から分離)。しかし、上述したような各種のコンクールが開催されると、脚光を浴びたのは灘や伏見の蔵ではなく、広島勢だったのです。

江戸時代から灘や伏見に対抗するための独自の酒造りが盛んだった広島では、軟水醸造法を代表とする各種の研究開発が盛んでした。こうして広島の酒造りが全国的に注目を集めたことは、後年の地酒ブームの萌芽ともなりました。

それにしても、明治新政府は何故こうした酒造りの近代化を後押ししたのでしょうか。

その理由は、明治以前と同じく、税源として酒に着目したからに他なりません。

発足した新政府にとっては、経済的にも軍事的にも、諸外国から近代国家として認めてもらえるような国づくりが喫緊の課題でした。そのためには、強い財政基盤の確保が急務です。そこで着目されたのが、酒税でした。当時、酒はまだ輸出品ではなく、国内での取引が中心です。そのため、明治新政府が頭を悩まされていた不自由な貿易関税の影響を受けることもありません。自由民権運動の一環としての抵抗運動も空しく、酒税は度重なる増税が繰り返されます。結果、酒税は国家の歳入のトップの座を占めるまでになったのです。

SAKE DIPLOMAの教本では、第二次世界大戦後の日本酒製造免許場数の減少が図表を用いて取り上げられています(P.17,図表2)。しかし、酒蔵の減少そのものは、明治新政府による重い徴税政策に端を発しています。そうした中で、以降の酒蔵は生き残りをかけた悪戦苦闘を強いられていくのです。


2.大正時代·昭和初期の日本酒

重い税に負けじと、日本酒造りの近代化は進みます。

各種コンクールにおいて高い評価を得ようと、より一層吟味して醸す酒造りが目指されます(これが”吟醸酒”の語源)。

その中で開発された技術で重要なのが、以下の3つです。

1つ目は、竪型精米機。これにより、それまで以上に風味の良い酒造りが可能となりました(ちなみにこの竪型精米機が開発されたのも広島県です)。

2つ目は、きょうかい6号酵母。昭和初期のコンクールでとりわけ注目を集めた秋田県の新政酒造から分離され、瞬く間に全国に広がっていきます。明治時代に始まった各種コンクールは、強大な権威として全国各地に影響力を及ぼすまでになりました。

3つ目は、酒米の開発です。当時のコンクールで主流だった酒米は、江戸時代から用いられていた雄町でした。しかし、明治以降の研究開発の結果、令和の現在でも「酒米の王」と称される山田錦が1923年(大正12年)に誕生しました。

こうした技術開発によって酒造りは益々発展の一途を、、、

となればよかったのですが、そこに影を落とす出来事が起こります。


それが、度重なる戦火でした。


政府は戦費調達のため、酒造りにおいても精米歩合(米を削る割合)に制限を設けます。せっかく開発された竪型精米機でしたが、この政策により普及は大きく遅れることとなります。

酒の価格も厳しく統制され、結果として闇市場をも生み出しました。需要と供給のバランスは大きく崩れ、この溝を埋めるために苦肉の策をとる酒蔵が現れます。その策とは、かさ増しのために水を混ぜた酒を造ることでした。金魚も泳げてしまうくらいアルコール濃度が薄まってしまったことから、これらの酒は「金魚酒」とも呼ばれました。

こうした粗悪な酒を取り締まるために設けられたのが、級別制度です。級別制度に関しては、SAKE DIPLOMA認定試験の勉強においても欠かせない事項となっています。制度の詳細はここでは省きますが、しかし、その誕生の背景には上記のような理由があります。だからこそ、級別制度においてはアルコール濃度が重要な基準とされていたのです。この事実は教本には書かれていませんが、酒造りにおける先人たちの苦悩と試行錯誤の歴史における重要な一幕と言えるでしょう。

戦争の火は、他にも様々な影響を酒造りの世界に及ぼしました。

先程述べた6号酵母が爆発的に広まったのも、酵母自体の優秀さもありますが、酒税を元手とした戦費調達のために、優秀な6号酵母の使用を政府が広く奨励したことも大きな一因です。

やがて戦火が拡がると、統制の一環として、県境をまたいだ米の移出も制限されます。この臨時米穀配給統制規則が、皮肉にも「酒米の王」こと山田錦の普及を後押ししました。一大勢力だった灘の酒蔵は、この規制により県外産米の雄町の使用を断念せざるを得ず、県内産の山田錦の使用にシフトします。このことが、山田錦に光があたる原因となったのでした。

また、国内より寒さがより厳しい満州の地でも、日本人の手による酒造りが行われました。日本からの入植者は若者が多く、酒の需要はむしろ国内より高かったそうです。酒造りの環境は厳しいにも関わらず、需要は高い。日本国内以上にバランスが崩れた受給ギャップを埋めるために、新たな技術が開発されます。それが、アルコール添加でした。

アルコール添加の技術そのものは、腐造を防ぐものとして江戸時代初期から知られていました。しかし、受給の溝を埋めるために、単なるかさ増しのための手段として用いられ始めます。満州の地で始まった粗悪なアルコール添加酒の製造は、やがて本土にも広がっていきます。アルコールを添加しない酒と比べて三倍ほどの量を製造できたことから「三倍醸造酒」と呼ばれたこの酒造りの手法は、戦後も長く尾を引きました。


3.戦後·高度成長期の日本酒

悲惨な戦争が終わりを迎え、焼け野原からの復興が始まります。

日本酒造りはというと、実にたくましいことに、終戦翌年の1946年には全国清酒品評会と全国新酒鑑評会の両コンクールが早くも復活。いまだ厳しい食料統制下でのコンクールでしたが、そこで注目を集めた「真澄」の酵母が、低精米(あまり削られていない米)でも力を発揮することが時代の要請にも合致し、きょうかい7号酵母として分離されました。

しかし、戦前から続く闇市場は無くなることはありませんでした。多くの酒蔵が戦争により壊滅的被害を受けていたにも関わらず、酒の需要が細ることが無かったからです。各地からの兵の復員による飲酒人口の拡大。依然として深刻な食糧難。厳しい環境の中、戦後の日本酒造りは闇市場に支えられてしまっていた側面が大きいと言わざるを得ません。

教本では、この時期に闇市場で流通した粗悪な酒として、カストリという名の密造酒が取り上げられています(P.229)。ただ、これは粗悪といっても一応は芋焼酎だったようです。メチルやバクダンと呼ばれていたものはもっと酷く、これらは燃料用のアルコールとほぼ変わらないシロモノだったというから、もう、ドン引き・・・。こうなると政府も対策を講じざるを得ませんでしたが、その対策も、戦前に生まれた三倍醸造酒の採用という苦肉の策にとどまりました。

この悲惨な状況を脱するきっかけとなったのが、皮肉にも、朝鮮戦争によりもたらされた特需景気でした。景気が好転したことで、政府は思い切った大減税を敢行。これが、闇酒から人々が脱却する契機となったです。

コンクールも、ますます活況を呈します。市場での流通は少し先になるものの、コンクールでは吟醸酒の質が益々向上。この時期に分離されたきょうかい9号酵母は、現在でも吟醸酒造りにおいて主流の酵母です。なお、産業振興を主たる目的としてきた全国清酒品評会は1950年に幕を閉じました。以後は、醸造技術を競い合う全国新酒鑑評会がコンクールの中心となり、現在まで続いています。

醸造技術は着実に進歩を続けましたが、市場は質より量を求めていました。酒の大量生産が可能になったこともあり、三増酒を中心とした量産主義が主流になります。経済が急成長を遂げる中、日本酒の消費量そのものは増加しました。しかし、大量生産による安価な酒の流通は味のイメージの低下を招き、食の洋風化も加わった結果、後の大幅な消費低下の種がまかれてしまいます。


4.1970、80、90年代の日本酒

1973年、日本酒の消費量は遂に減少に転じます。これには何か決定的な原因があったわけではありません。神の化身として産み出された日本酒は、権力の象徴でもあった時代を経て、もはや一般市民まで簡単に手に入る商品へと姿を変えました。その結果、人々はもはや日本酒に対して特別視することは、もはや無くなっていきます。これが、酒造りにおいても質の低下を招き、酒のイメージが下がり、消費量が減り、酒造りの質が低下し、、、という悪循環に陥っていきました。

バブル期には消費量回復の兆しを見せたものの、高級志向はワインに集中。日本酒の品質向上にはつながりませんでした。

こうした時代において、酒の味わいの志向も次第に変化していきます。それまでの重厚で濃醇な味わいに替わり、淡麗辛口の酒がもてはやされるようになりました。教本にも、上越新幹線の開通による新潟県産酒ブームが淡麗辛口が広がった一因として取り上げられています。ほかにも、日本酒の淡麗辛口化には様々な要因が考えられます。安全醸造が求められた戦後期に、色のついた酒(濃醇な味わいの酒)は腐造酒とされて評価が低かったこと。高度経済成長期以降、ポストモダンと呼ばれる反重厚長大思想が求められる風潮があったこと。こうした時代背景のなか、現在でも「酒と言えば辛口!」という方が多い遠因が醸成されました。


5.現代の日本酒

長い時を経て、現代へと受け継がれてきた日本酒造りの伝統。その歴史を辿る長い旅も、ようやく現代へとたどり着きました。

戦後は、淡麗辛口が一大ブームとなりました。しかし、現代においては、消費低迷に拍車がかかるなか、味の多様化によって新たなニーズを掘り起こす只中にあります。昔ながらの濃醇な味わい、スパークリング清酒、際立って華やかな香りの吟醸酒など、消費者がその好みに応じて銘柄を選択できる。まさに、商品として完成されつつあると言えるでしょう。

消費地も、もはや国内にとどまりません。教本でもデータが取り上げられている通り、いまでは海外への輸出も盛んに行われています。

新型コロナウィルスの流行によって、全世界的に時代の転換期を迎えています。日本酒も、その波から逃れることはできません。しかし、これまでも様々な荒波を乗り越えてきたように、この未曾有の危機ですら、さらに進化した日本酒が生まれる序章にすぎないのかもしれません。


おわりに

4回にわたり、日本酒の歴史を追ってきました。SAKE DIPLOMA試験の範囲からは外れた部分も多く取り上げましたが、一通りの流れは大枠説明できたと思います。

年号制度の名前を覚えることだけでは、見えてこない歴史の真実もあります。せっかく日本酒という伝統文化に触れるのですから、個々人がその歴史に思いを馳せる楽しみも味わいたいものです。

今回は、その楽しみを、個人的に漫喫させていただきました。

まだまだ説明が不十分な点もあるかと思いますが、ひとまずこれにて「歴史編」は終幕にしたいと思います。


長かった。。。_(」∠ 、ン、)_


注)私は、まだまだ日本酒を勉強したての身であります。記載事項に関しては、自らのSAKE DIPLOMA認定試験合格の武器になったことは事実ですが、専門的見地からすると誤りであることも多々あるかと思います。その際は、ご指摘を頂けると非常に助かります。












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