見出し画像

精神病医院潜入実験はほんとうに行われたのか?

今回も本の紹介です。『なりすまし——正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』というタイトルの本を紹介したいと思います。原題は「The Great Pretender」です。アニメのタイトルにもなっていますし,海外では有名な曲名でもあります。日本語に訳すと「とんでもない詐欺師」といった感じでしょうか。

本のテーマが「心理学者」である一方でタイトルが「詐欺師」とは,どういうことなのでしょうか。

ローゼンハン実験

この本のテーマは,次の論文について調べていくというものです。著者はスタンフォード大学で心理学と法学を教えていた,デイヴィッド・ローゼンハンです。

論文のタイトルはこちらです:On Being Sane in Insane Places。そして,論文が掲載されたのは世界的に権威のある雑誌サイエンスです。

論文の中では,8人の人々が症状を偽って精神病院に入院する様子が描かれています。「20代の心理学の大学院生1名,心理学者が3人,小児科医が1名,精神科医が1名,画家が1名,専業主婦が1名」潜入実験に参加したと書かれています。全員偽名を使っていて,職業も偽っていたそうです。潜入したとされる病院は,東海岸と西海岸の5つの州にまたがっている12の精神病院でした。

病院に電話をして,ニセの患者たちは「声が聞こえる」と訴えます。「空虚」で「からっぽ」で「ドスン」などと聞き慣れない声で聞こえてくると伝えます。氏名と職業,症状を主張する以外については,自分自身の様子や生育歴などを偽らなかったと論文には書かれています。

こんなことで入院できるのか?と思うかもしれませんが,8人とも入院に成功して,病理を偽っているということは一人も発見されなかったそうです。入院期間は7日から52日,平均は19日だったと書かれています。

ただし,誰も疑念を口にしなかったのではなく,一緒に入院していた患者の中には疑念を口にした人もいたそうです。「あなたは狂っているのではなく,ジャーナリストか教授だろう。病院のことを調べているんだろう」と言われたこともあるとか。入院患者118人中,35人は疑念を口にしたと論文に書かれています。スタッフは見抜いていないのに,患者が見抜くという対比が強調されています。

入院中に病理ではないことを見抜けなかった理由として,統計的な第二種の過誤のような認知的なバイアスのせいではないかと考察されています。医師は,病気の人を正常と呼ぶ(第一種の過誤)よりも,健康な人を病気と呼ぶ(第二種の過誤)ようにバイアスがかかっているのではないかという仮説です。

その他,退院後のケースの要約が紹介されたり,細かい数字が報告されている論文です。なんといってもサイエンスに掲載された論文ですので,それだけでも大きなインパクトがあるということが想像されます。

研究のインパクト

この研究は,まだ発表される前から話題になっていたそうです。著者のローゼンハンは,論文が公表される前から「こんな研究をしている」ということでよく知られていて,サイエンスへの掲載も編集者からアプローチがあったのではないかということも本の中に書かれています(掲載の経緯は明らかにはされていないのですけれども)。

この論文が公表される前から,当時の精神医学にはさまざまな問題が指摘されていて,改革が求められていました。複数の精神医学者に同じエピソードを示すと,全く違う診断結果を示してしまうことが報告されたり,精神病院の惨状が告発されたり……。ローゼンハンの論文は,そこにさらに油を注いで騒動を大きくしていったものだと言えそうです。

時流に乗った研究を行ったということですね。ちなみにローゼンハンの専門分野は精神医学でも臨床心理学でもないのですが,この研究によって専門家のように扱われるようになっていきます。

改革へ

この論文は当然ながら,精神医学者の反発を招き,批判する論文も公表されていきます。しかしその一方で,精神医学の改革も進んでいきます。

その一番大きな成果は,1980年に発表されたDSM-III(精神障害の診断・統計マニュアル第3版)です。DSMは第1版,第2版と出版されていたのですが,まだ精神疾患は十分に整理されてはいませんでした。そこに登場した第3版では,目に見える症状,徴候,行動傾向などを見ていくことによって,客観的に誰もが同じ診断にたどり着くことができるような工夫がなされていきます。

なお,DSM-IIIの成立の過程については,この本にも詳しく書かれていますのでぜひどうぞ→『精神医療・診断の手引き―DSM-IIIはなぜ作られ、DSM-5はなぜ批判されたか』。

私が大学で心理学を学んだ頃は,DSM-III-Rという,第3版の改訂版が出版された後でした。DSM-III以降では,客観的な診断が可能になる一方で,向精神薬を取り扱う製薬会社との関係も密接になっていきます。DSMに書かれた診断に対応する薬を売り出すことで,莫大な利益につながっていったからです。

潜入実験の詳細

さて,ローゼンハンの潜入実験の詳細は,どのようなものだったのでしょうか。

実はローゼンハンは当時,出版社と契約して本の出版の準備を進めていました。ところが結果的にその本は出版されることはなく,出版社から訴えられるという結果すら招いています。『なりすまし』の著者が調べていくと,ローゼンハンが途中まで書いた原稿も見つかるのですが,未完の状態で出版にまで至っていません。

そして著者は,ローゼンハンの資料や実際に精神病院に潜入した人物に会うことで,潜入実験の詳細を調べていきます。しかし,なかなか真相にたどり着くことができません。少しずつ周辺的な証拠はわかってくるのですが,核心にたどり着けないというもどかしさが伝わってきます。

疑念に変わっていく

著者が調べていくにつれて,本当に論文のとおりに潜入実験が行われたのか,そもそも8人全員が潜入実験をしているのか,という根本的な疑念にまでたどり着いていきます。ローゼンハンの人となりと状況証拠が積み重なってくると,どんな想像が膨らんでくるでしょうか……ぜひ,この本を手に取って確かめてもらえればと思います。

 ローゼンハンの実験とバートレットの誤診について娘のメアリーに話したとき,父とその話をしたことはなかったけれど(そもそも名前が伏せられていたので,彼が実験でどんな役回りを演じたかおおやけにはならなかった),父が「とても傷ついた」のは間違いないと彼女は言った。わたしも,そしておそらくローゼンハンの論文を読んだ大勢の人々も,典型的なヤブ医者だとばかり思っていた,このバートレットという医師は,じつは重い精神疾患が当人やその家族にどれだけ犠牲を強いるかを身をもって理解し,大義のために一生を捧げた人だった。問題ある判断をした問題ある医師などではなかった。過ちを犯した名医でさえなかった。あたえられた情報から最善の診断をくだした名医だったのだ。
 もしわたしたちがバートレット医師についてこれほどの誤解をしていたのだとしたら,ローゼンハンについても誤解をしていないとは言いきれないのでは?(p.260-261)

この精神病院への潜入実験は,多くの心理学の本にも一般向けの本にも取り上げられている,とてもよく知られた研究です。この本はその背後にどんどん迫っていく,推理小説でも読むかのような気分にさせられる内容でした。

そして最近,昔の有名な研究が実は……という本がたくさん出版されています。こういったことを調べて事実を明らかにしてくれるジャーナリストや研究者たちにも感謝しつつ,今回の記事は終わりたいと思います。

ここから先は

0字
【最初の月は無料です】心理学を中心とする有料noteを全て読むことができます。過去の有料記事も順次読めるようにしていく予定です。

日々是好日・心理学ノート

¥450 / 月 初月無料

【最初の月は無料です】毎日更新予定の有料記事を全て読むことができます。このマガジン購入者を対象に順次,過去の有料記事を読むことができるよう…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?