「当たり前」を覆す研究
多くの人が「当たり前」だと考えていることを研究で覆す,というのは,研究をおこなう上でひとつの目標でもあります。それまでの価値観をひっくり返すとか,多くの人が信じていることが実は誤りだったとか,「良い」とされていることに落とし穴があるとか,「良くない」とされている機能に実は適応的な機能があるとか……。
科学は「ツキ」を証明できるか
今回は,ベン・コーエン著『科学は「ツキ」を証明できるか:「ホットハンド」をめぐる大論争』について紹介したいと思います。
ホットハンド
ホットハンドの誤謬という現象があります。これは,本来はランダムに生じている現象であるにもかかわらず,成功するとその後も成功が続くように思えることがあります。バスケットボールのような競技が典型的です。いちどシュートが成功すると,次もシュートが成功するように思えます。2回シュートに成功すると,流れに乗って3回目も成功しそうです。
本来ランダムであるにもかかわらず,ランダムに思えないから「誤謬」ということになるわけです。
ホットハンドの否定
ホットハンドは存在せず,私たちの錯覚に過ぎないということを示した論文は,1985年に出版されます。
The hot hand in basketball: On the misperception of random sequences
フィラデルフィアを本拠地とする76ersやボストン・セルティックス,コーネル大学のバスケットボールチームのシュート記録を分析して,それ以前のシュートの記録はそれ以降のシュートの成績には影響しないという結論を報告しています。
反応
この論文に対するバスケットボール界からの反発は,すさまじいものだったそうです。しかしむしろ,論文を発表した研究者たちは,この反応を期待していたとも言えます。今でいえば「炎上」ですね。研究も「炎上」して広まることがあるのです。
のちにノーベル経済学賞を受賞するカーネマンと重要な研究をいくつもおこない,スタンフォード大学に赴任してこの研究をおこなった一人でもあるトヴェルスキーは,59歳と若くして亡くなる直前まで,このホットハンドの研究を引き合いに出して講義を行っていたそうです。
常識へ
というわけで,私が心理学を学んでいた頃も,「ホットハンドという私たちが信じている常識は,常識ではなく錯覚である」と学ぶことになるわけです。
そしてこの研究結果は多くの教科書,書籍,メディアに取り上げられて世の中に広まっていき,「錯覚の一つ」として常識になっていきます。「当たり前だと思っているけれど,実は錯覚なんでしょ」と人々が当然のように考えるようになっていったというわけです。
常識への挑戦
ところが,「これが常識でしょう」と言われると,疑いたくなるのが研究者と言うものです。本当に,研究者というのは天邪鬼で,常に「もしかしたら違うかもしれない」と疑いをかけているのではないかと思われてもしかたがありません(実際,そうなのですが)。
そうこうしている間に,世の中が変わっていきます。昔はできなかったような研究ができるようになるのです。バスケットボールでも,試合中の細かいデータが大量に記録され,どのプレイヤーがどの時間に何をしたかがほぼわかるようになっていきます。すると,誰がどの位置でどのような難易度のシュートを放ち,その時にディフェンダーがどこにいて,結果的にそのシュートが成功したのか成功したのか……という,細かい条件を分析して結果を検討することができるようになっていきます。
しかし,手作業ではできません。これを可能にするのは,統計処理手法や高性能なコンピュータ,インターネットの発展です。1980年代には素朴な分析だったものが,当時ではとてもできなかったような詳細かつ精度の高い分析が可能になっていくのです。
すると,バスケットボール選手は,連続してシュートが入ったと認識したときにプレーを変えるのか,プレーの変化はホットハンドを生み出すのか,といった疑問を検討することができるようになります。
ホットハンド再発見
というわけで,ホットハンドのような現象は再発見されることになります。
計算を繰り返していくと,次のような現象が明らかになります。
「ホットハンドは誤りである」という常識化された研究結果は,覆ることになるのです。
誤りを認める
この本の中には,「ホットハンドはなかった」論文の著者のひとりだったトヴェルスキーの盟友カーネマンの前で「ホットハンドはあった」と学会発表をしたときの様子も描かれています。カーネマンの研究ではないにしても,過去の研究の誤りを指摘されることは,研究者にとってはなかなか辛いものです。しかし,証拠の前では研究者は真摯な姿勢を貫きたいものです。
ただし,「ホットハンドは存在する」とはいえ,あくまでもこれは確率的な話です。常にホットハンドが成立するわけでもありませんので,「1.2パーセント」とか「2.4パーセント」とか,そういう世界の話だということは理解しておきたいところです。
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