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親子

2020年のころ。
NHKの連ドラで「スカーレット」というのをやっていた。

スカーレットの最終回。
慢性の骨髄性白血病を患った息子の武志と母の喜美子のやりとりがあった。
ドナーを探してみるものの武志は亡くなってしまったのだけど、母の子どもに対する愛情の深さを身につまされる思いで見ていた。
そして、ぼくは母との最後に過ごした二人の時間の事を思い出していた。

母は病院で亡くなった。
老衰だった。
腰椎の圧迫骨折から歩くことが困難になり、痴呆が進んだ。
それで、ぼくは東京に住んでいるのをいい事に、母に会いに行く事を避けていた。
あんなに元気だった母が老いていく。
そんな当たり前のことが受け入れられずにいたのだ。
その事が母が亡くなってから、ぼくを苛み続けている。

母との最後の「親子」としての記憶は、病室を訪ねた時の記憶だ。
その日は朝から冷たい雨が降っていた。
病室を覗くと、母は起き上がって窓の外を見ていた。
「起きとってもええのか」
「うん、寝とってばっかでは、腰が痛なるで」
この頃の母は、ちゃんとぼくが分かっていた。
だから「親子」として、と書いたが、もちろんどんなに痴呆が進もうが「親子」は「親子」だ。
ぼくは持って来た着替えや、持ち帰る洗濯物をかばんに詰め替えたりし始めた。

「あんた」
なに?
「誕生日、いつだった?」
一昨日だがや

母は少し驚いたような顔をした

「いくつんなった?」
49だわ

そう言うと、母はまじまじとぼくの顔を見た。

なに?どうしたの?
「あんた」
うん
「身体、大事にせなかんよ」

そういうと、ぼくの手を取って驚くほどの力で握りしめた。

「つーめたい手しとるねぇ」
うん...

昨日の事のように思い出せる。
その時の光の加減や、母の着ていたパジャマの模様まで。
それから程なくして、母は完全にぼくがわからなくなり、会話らしい会話は成立しなくなった。
あの時の母の手の力、暖かさは生涯忘れる事はないだろう。

親子は当たり前だが、同じように生涯を過ごす事はできない。
どちらかが先に旅立つ。
その別れは、どんなに心の準備をしていても、やはり唐突にやってくる。
病気で先がないと宣告されていても、その瞬間を迎えるまで、親子は、まさか親が、まさか子が先に行くとは考えられないからだ。

それでも何となく、まぁ後から思えばだけど、別れを暗示させる出来事はあって、何であの時気づかなかったか、と思ったりもするが、先にも書いたが、まさか「親が死ぬ」とは思っていないから無理な話ではある。
冗談でもなんでもなく、理由すらなく「親は死なない」と思っていた。

母が旅立って3ヶ月後に父が彼岸へ渡った。
気持ちの整理がつかないまま、相次いで両親がいなくなってしまった。
ぼくは一人っ子であるから、もうこの世で無条件にぼくを許してくれる人はいなくなってしまった。
ああ、親離れというのはこういうものなのだな、と実感する。
物理的にだけではなく、精神的にも寄るべない身になって初めて人は「子ども」ではいられなくなる。

そうするとなお一層、両親への想いは強くなっていく。
父とこんなことを話したい。
母にあんなものを見せてやりたい。
いやなにもしなくても話せなくてもいいから、ただ一緒にいたい。
切実に思うのだ。

いい年したオッさんがなにを寝言言ってるか、と思われるかも知れないが、なにか言いたかったことを思いついてみても、もう伝えるすべがないのである。
伝えられたとして、まあ憎まれ口になるのかも知れないが。

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