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オリンピック
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東京オリンピックが開催されるというニュースが流れたのは2013年だったか。
ぼくはまだ愛知県岡崎市に住んでいて、週に何度か母の介護の為に名古屋の実家に帰る日々を過ごしていた。
7年後に東京でオリンピックやるんだと
ぼくが母にそう言うと
「前のオリンピックも大騒ぎだったねぇ。あんた覚えとる?」
何言っとるの、前の時はオレはまだ生まれとらんがね
「あれ?ほうだった?」
なんて言って笑っていたものだ。
既にかなり痴呆が進んでいた上に脊柱管狭窄が酷く、自分で歩く事はかなり消耗するらしく、家での移動も手すりなしには出来なくなっていた。
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娘が東京の大学へ進学するのが決まったのは2016年だった。
ぼくも少し前から異動を内示されていたが両親の事もあり苦渋の決断になった。
決められたのは父の「仕事なんだで(名古屋弁で「なんだから」)甘い事言っとってかん(同「だめだ」の意)。お母さんはオレが見とるでええわ」という言葉だった。
病床にあり、寝たきりになっていた母にも報告をした。
聞いているのかいないのか分からないような状況だったが時々霧が晴れるように色々理解できる時があって、その時には、早く元気になって東京でオリンピック見ようなどと話した。
母は頷いているばかりだったが目はちゃんと理解している目だった。
その年の暮に母は他界した。
葬儀などを済ませた後、ぼくは父に暖かくなったら東京においでと話した。
「東京かぁ」
うん。お父さん一人くらい何とでもなるわ
「ほうだなぁ。ちょっと行くか」
ぼくはそのまま父を東京に引き取る気でいた。
そういう話も家族でしていたし、その為の準備も始めていた。
一人で年寄りを置いていくのは本当に忍びなかったのもあるし、昭和一桁生まれで長男として幼い兄弟を抱え戦後の荒波を潜って来た父が、弱音など吐いたことがない人だったのに時々ポツリと気弱な事を言うようになっていたからだ。
父は春を待たなかった。
2021年の昨日は両親と家族と東京オリンピックの開会式を見ていた。
母はきっと喜んで見ていただろう。
そういうイベントは大好きな人だった。
父は少し斜に構えてぶつくさ文句をつけながら。
やがて二人は言い合いを始めたり。
そんな風景を思い浮かべながら、果たされなかった約束を思い出していた。
お父さん、お母さん、見える?
スゴイなァ、キレイだなァ。
今年はフランスでオリンピックをやるんだよ。
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