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SAWADA

かなり前の話だが、玉木宏が沢田教一の足跡を追う番組を見た。

沢田教一については、あまり良く知らない。
同様に玉木宏についても「たまき」であって「たまおき」ではないので「たまおきひろし」とはならずに、象印スターものまね大合戦の司会をやる人ではない程度の知識である。
ああ、それと名古屋の人だと言う事。
同じ名古屋人でもエラく出来が違う。
無論、僕のが良いに決っている。
番組は玉木の沢田への思いであったり、あの写真の人たちが健在であるのを訪ねたりする事で構成されていた。

こんな言い方をしては何だけども、こういった戦争経験者から「二度とあってはならない」「あんなひどい目には遭いたくない」というコメントを引き出しても、実際の戦争を知らない人には「今日は良い天気ですね」といった様な意味しか伝わらないのではないだろうか。
僕の知人で損保会社に勤めている人がいるが、彼は仕事柄、事故現場の凄まじいまでの状況を見たりする事がある。
彼は「もし可能なら、あの写真を見せたら交通事故は激減すると思うな」と言う。
同様に戦争も同じ様な事が言えるのではないだろうか。
例えばこの動画(残酷なシーンなのでリンクを貼るのみにさせていただく)も写真では何度も見た画だが、改めて動画で見ると、途轍もなく恐ろしいシーンである。

戦場カメラマンという言葉が嫌いである。
カメラマンとして目指した先が偶々戦場だっただけではないか。
彼らが押さえたかったのは「人」であり、その人を取り巻く「愛」であったりするのだ。
いつだって戦争の犠牲は「弱者」である。
慎ましい日々を蹂躙され、謂れなき暴力を受けるのは力のない人である。
殺伐とした戦場で、一瞬でも垣間見える人間の「愛」は、例えばこの写真の様に逃げ惑う人たちにあったのかも知れない。
写真なんか撮る前に助けろという声がある。
それはそれで正論である。
そのジレンマで自死したカメラマンもいる。
しかし、その一枚で戦争を考える人もいる。
生を考えたり、あるいは人生を考えるかも知れない。
絶対に弾丸の飛んでこない穏やかな部屋でコーヒーを飲みながら「先に救うべきだ」などと宣うのはナンセンスである。

戦争は嫌だ。
納得のいかない死に方はしたくない。
誰も殺したくないし、誰にも殺されたくない。
自分の人生は自分の物であるべきであり、誰かの人生も誰かの物であるべきである。

人類の歴史は戦争の歴史でもある。
有史以来、人は人と争い続けている。
世界平和などというのは絵空事なのかも知れない。
実際無理なのかも知れない。
そういった愚かさが具現化するのは、やはり現場で命を張ったカメラマンやジャーナリストの一報であると思う。
その愚行を見て、何を感じるか。
錆び付かせない様にしておきたいと思うのである。

今年も8月が近い。

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