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すごく嬉しいことが(詩の教室で)

(以下は、いつものように自分のAmebaブログhttps://ameblo.jp/atlan/(7/29日付)の記事からの転載に、すこし文言をつけ加えたものです)

とても、とても嬉しいことがありました。
受講しているマーサ・ナカムラさんのオンライン詩の教室で、今度、自分の好きな詩2篇を紹介する番に僕が当たりました。
(指名時は、内心、「来た〜!」とガッツポーズしました。笑)
で、先生にはお知らせしてませんが、マーサ作品ファンとしては媚びとか阿りとかは一切なく、先生ご自身の作品を分析・紹介するつもりです。
(もう一つは、荒川洋治さんの作品にします)
しかも多分、先生からしたらマイナーな、詩集にもない、新聞掲載の非代表作を選びます。

ファンとしては一番聞いて欲しかった人に、つまり「推し」自身に、作品のどこが素晴らしいのかを研究成果として開陳できるなんて、
すごいと思いませんか?
まさにファン名利につきます。

開陳する、読売新聞の’22年6/25(土)の夕刊に初出の詩篇「電車のとまる、きつねの停車場」。
この作品を、2年前、偶然に見つけた時は、まさかこんな日が来るなんて想像もしなかったことです。(当たり前か)
そもそも、この教室は2年前、存在してませんから。

来月、講座でマーサ先生ご自身が気づかなかった点を、一つでも提供できれば、それに優る幸せはありません、です。
密かに、この夏一番の楽しみになりました。

いつか、マーサさんの特集本が企画されたら、ぜひ僕を執筆者の一人に加えてほしいです。(おいおい)
そのためにも、僕自身の文学的実績を高めておかないといけない、と決意を新たにしました。

もう一人の好きな詩人で荒川洋治さんの初期作品を挙げました。
久しぶりに、洋治さんの第1詩集『娼婦論』の作品「キルギス錐じょう」を読むと、その凄さに改めて感心すると同時に、意外にも、今回のマーサ作品との共通点を発見しました。
どちらも同じ、夕暮れの情景で、3次元現実と2次元非現実が交錯する作品でした。

ああ、これはこれでシンクロニシティしている、とも感じました。
恐るべしです。

そういえば、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』に初めて現代詩を感じた、と前に(ブログで)書きましたが、
いくつもの現代詩の作品を読んだ上で、詩らしきものを書き殴っていて、一番衝撃をうけたのは荒川洋治の初期作品でした。
絶対、こんなの書けないと思ったものでした。

もちろん、今でも書けませんが、ふと気を抜くと、エピゴーネン的な作品なら今なら書ける気がしてしまうし、ふと書きそうになります。
いつか、(いや、今やるべきか)挑戦して、自分なりに昇華した、オマージュ的な作品は描きたいものです。

昨日は、詩のモードに入ってしまい、いくつも詩を改稿。清書しました。
公募作品では、白鳥省吾賞、蟹と水仙の文学コンクールの二つを投函・WEB応募。
マーサ教室の課題詩篇ひとつ、ユリイカへの来月分の投稿詩篇ひとつ。
詩は書くのは、ほんと楽しい。
計算通りに書けるし、計算外の言葉も出てくるから。

でも、だからこそ、そこに安住できない。

今年は、小説道を行くと、決めたから。
「道」のような研鑽・修行するイメージを抱いている限りは、囚われ過ぎて、余計に描けない部分もあると理解しているけど、
やはり、今の自分にとっては「小説道」だ。
この囚われ部分こそが、紛れもない自分自身の本当の姿でもあるから。
きっと、自分の中に小説ルートを、村上春樹流にいうと、自分の「井戸」を見つけて汲み出せるようになったら、
詩の書き方自身も根本的に変わる気がする。
(事実、今、まさにマーサさんの詩の教室で学び取っているスキルは、小説にも転用できるものだからね)

すでに、答えは持ってるから。
ゲシュタルト表現。
読み手に向けて、「見えないもの」を書くこと。
そのためには、自分の中の【ストーリー展開の呪縛】をひとつでも多く、解除することだ。

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