見出し画像

230729_『怪物』の寓話性

2023/07/29

幾人かの友人たちに勧められたので『怪物』を見に行った。その時の話題の映画は見ないポリシーなのだけど、最近は映画館で見た方が良いと思った時は、『君たちはどう生きるか?』然り見てしまっている。

内容に触れるのでしばらく改行をいれる。
(こういう配慮がいつの間にか当たり前の顔をするようになっている)











この時期に坂本龍一の音楽が流れるだけでもう満足だし、この映画が掲げる主題には賛同する。いくつかの美しいカットが目に焼き付いている時点でとても良い映画なのだと思う。ただいくつかの違和感が残る。

無知や不理解によって他者を悪魔化(映画になぞらえるなら「怪物」)し、「怪物」が「怪物」たるためのわかりやすい物語を用意して、複雑な状況や理解可能ではない他者を理解したことにする。これは現代の我々が陥りがちな誤謬であって、この映画はそうした安易な物語を批判して解体していくという明確な主題がある。この映画の構造と主題は第二パート(パートというフレーズがぴったりなほど明確な構成を持っている。)に明らかにされ、第三パートもそれに続く。

この主題自体は、とても切実なもので、観客動員の多い映画で取り扱われること自体に価値があるのだと思う。ではどこに違和感を感じるかと問われれば、わかりやすい物語への批判であるこの映画にわかりやすい戯画的な表現や寓話的なプロットによって成り立っている点である。

この映画には二面性(多面性というべきか)を持った人物が複数登場する。これは過度にアイデンティティの一貫性(自己同一性の同一性)を他者に求めるような風潮への批判なのだろう。こうした人物は、卓越した役者の演技によって見事に演じ分けられている。

ただ、その演じ分けがあまりに振り幅が大きい。第二幕の堀先生は、登場した瞬間、一言も話す前から異なる人物として描かれる。人物の立ち姿や表情、衣装、小道具、その全てが異なる。素朴かつ好意的に理解すれば、第一幕における保護者への顔と、第二幕における恋人や生徒への顔の違いが描かれている。しかし、この描き分けは、もはや映画世界の中の人物描写を超えて、見ている観客の印象そのものを演じていたのではないか。

なぜ他者をわかりやすい物語で「怪物」にしていくことを批判するその手つきがこれほどまで戯画的なのだろうか。これが現代の寓話であり、もし仮にも観客を啓蒙するニュアンスがあるならば、観客への信頼が足りないのかもしれない。戯画的な物語で啓蒙された観客たちは、観賞後から世界の見え方が変わるのだろうか。世界の複雑さに向き合うことができるのだろうか。

寓話的で明快な構成ゆえに、後半は伏線を拾い上げていく描かれ方が続く。ちょっとした偶然や勘違い、嘘が理解しやすい物語に寄与していたのだと開示されていく。しかし、現実には神の視点で張り巡らされた伏線をたぐりよせれば、他者や状況の複雑性を理解できるなんて簡単なものではないだろう。

この映画にはいくつかの解明されない謎がある。謎の残る部分、開示の機会が少ない二人の女性(母親と校長)や、大人たちに比べて戯画的な表現の少ない子供たち(とくに星川くん)は逆説的ではあるが、人間の複雑さを保っているように思う。とりわけ田中裕子演じる校長が、タバコを吸う、そしてホルンを吹くシーンは、不可解でおどろおどろしい印象を残す。官僚的で冷酷なはず校長が、突然現れてタバコを吸い、ホルンを吹く。その不可解さは置き去りにされている。

終盤、反目しあっていた母親と堀先生が協力し合う。それは共通の目的を見つけたからと言えばそうなのだが、実は映像独特の表現であったと思う。嵐の中で叫ぶ堀先生という、悪天候と慟哭によって母親は堀先生に譲歩したのだ。このシーンを観た時に、映画だなと思った。そして本来それで良いと思う。映画は勝手に時間が流れていく、だから過度に説得的でなくても良いと思う。

私たちの生きる世界も本来そのはずで、時間が流れ、特に説得的な理由がないままに関係性が変わる。他者の視点を想像したら理解できる、あるいは説得されうるというのももう一つの戯画に過ぎないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?