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乃木坂46と人情の考察日記 「番外編1. ”Actually…”」

"Actually…"は
そうとは知らず
軽はずみに用いた尺度に対する疑念と
自己否定の歌です。



”断定的な物言いだな”


すみません、不思議や不快に感じられたかも知れません。
以降も断定的に述べた箇所がたくさんあります。

しかし、
内容と照らし合わせてみていただきたいです。

断定に
意味はありません。


それでは始めて行きましょー





"You know I need to find something, real bad."

“微笑むその度に
無理していたって思い出す”

ここは
「へー。なんで?」
と疑問に思い、次にいきましょう。
後で分かります。



“青空描くには Not yet
風が何色か知るべきでしょう?”

青空を描きたいのはなぜでしょうか?
美しいその景色を表現したいからでしょう。

では、なぜ美しいものを表現したいと思うのか?
そもそもなぜ、青空を美しいと思うのか?

つまりここでは、
・「美しい」ものを表現する理由
・青空が「美しい」と思う理由

が非自明です。

美しいものを表現したい理由は、
1. 美しいものに自分を近づけるため、
もしくは、
2. 美しいものを他人に伝えることで共感を得るため
などがあります。
芸術・宗教や基礎科学の目的は、ある種「美しいものを自分を近づけるため」です。
美しさの核、「真実」へとより近づくため自然を理解しようとします。

2の「他人の共感を得るため」は、社会生物である人間の本能でしょう。
同じ方針を享受できる人間とは、強い協力関係の構築が可能になります。

では、なぜ青空が「美しい」と思うのか。

青空を「美しい」と思うのは、それが自然の景色だからでしょう。
天災の予兆はなく、適度に乾いた空気は腐敗を防ぎ、身の安全を保証する。
そんな本能的な記憶からでしょうか。
それとも、雨や風に煩わされない事からくる快感といった、現代にも通づる記憶もあるのかも知れない。

では、私たちは本当に「青空そのもの」を「美しい」と思っているのでしょうか?
そこから得られる恩恵故に、「美しいと感じる」だけではないだろうか?
それは「美しい実在」ではなく、「美しいという名の感情」では?

実際、私たちは青空を見てなんかいない。
太陽光が大気を通過している間に散乱されて、最終的に残った、比較的波長の短い可視光に反応しているだけです。
「青空」という「実在」はありません。

私たちが青空と思っているのは、その実、すぐ目の前の流れる空気、風であるとも言えなくもない。
「美しいもの」はそれなのでしょうか?
確かに、それが美しい実在だと言っても良いかも知れない。
直接媒介してくれた存在なのですから。

しかし、たとえばこれはどうでしょう。
内側が空色に塗られた、ただの巨大なドーム。
その中にいるとは知らず、中から壁を眺めてもきっと、
私たちはそれを美しいと感じます。
青空を媒介してくれた目の前の風を「美しい実在」とするのであれば、
空色の巨大なドーム、もしくはその色を媒介する目の前の空気もまた「美しい」ものになります。


そもそも美しいと感じさせるのは、私たちの脳などの神経系です。
それでは、神経系が「美しい」のでしょうか?

本当にそうでしょうか?

なんだか禅問答か、攻殻機動隊か、唯脳論みたいになってきましたね。



“足りないもの…
Actually…
分かってない、何にも
この世界の美しさ、そう、醜さも”


私たちは、「美しい」ものが何なのかも分かっていないのに、無闇にそれに近づこうとします。
目的地がどこかも知らぬ旅。
そもそも歩き出す理由すら知らないのに。

実際は、
ただの感情でしかないものを「美しい」「醜い」といった「尺度」として呑気に用いているだけなのです。

ホモサピエンスは、抽象的な概念を他人と共有し仮想的な集団を構成できるようになったことで
その他の人類を滅ぼし、地球上で最も栄える哺乳類として君臨しました。
詳しくは歴史学者・哲学者ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」をご覧ください。

繁栄の理由になった能力ですが、この能力ゆえに人類は、存在しないものを仮定して、それを前提として行動を決めるようになりました。

お金がとても分かりやすい例でしょう。

お金そのものに我々の命を繋ぐ価値はありません。
価値を仮想化し、金属や紙に付与したのものがお金です。

しかし、現代人には「お金を稼ぐためにお金を稼ごう」とする人がいます。
そもそも、お金は命や自由につながる価値を仮想的に付与されたものであって、
実際に使うことを前提にしなければ、本来その意味はありません。

仮想的なもの(お金)に対して、仮想的な夢(お金を稼ぐためにお金を稼ぎたい!)を抱くのです。

人は、仮想的なもの前提として、その上でさらに、仮想的な世界を構築します。
・「国」という仮想的な集団を維持するために、違う国を「仮想敵」とする、
・「結婚」という仮想的なつながりを維持するために、「浮気はダメ!」という「仮想的なルール」を作る、
・「上司」という仮想的に「尊敬」する存在と仮想的な繋がりを維持するための、「土下座」という「仮想的な謝罪方法」を行う、
など、例には枚挙に暇がありません。


それらの存在理由や由来を考えて生きている暇は、
現代人には無いのでしょう。



“Actually…
気づいてない、自分自身
理想が邪魔して真実を見失う”


軽はずみに用いた「正義と悪」「美しさと醜さ」といった「良し悪し」という尺度は、実は、
使い物にならないと思える程、曖昧です。

実際は、そのように感じるように育った「自分」という存在に大きく依存したものに過ぎないのです。

美しいものは、そりゃあ「美しい」でしょう。
美しいと感じるのだから。
それは自分の中で出来上がった「バーチャルな美しさ」であり、まさに「理想」そのものです。



“くしゃみが出てしまう
眩しい太陽、見上げると
why?”

実際の現象と自分の体感との整合性の無さを言っています。
上記したことです。



“一番隠したい、シークレット
なんか目を逸らす、自然の摂理”


ろくにその美しさの理由も由来も知らないくせして、
自身の感じる「美しさ」が揺らいでしまいそうな本質に近づくと
私たちは感情的になり、目を伏せます。
面と向かって考えて、「美しさ」を失うのが怖いのです。

全く、本当に耳が痛いです。


美しいものだと思ったから、自分をそこに近づけようとしたのに…、
美しいものだと思ったから、他人に共感してほしいと思ったのに…。

「美しさ」を表現するための労力とその結果の虚しさを直視できないのです。



“知るべき事だ…
Actually…
曖昧な、何かが
生きる事の、その意味を
そう、美しくする

Actually…
イエスとノー
どっちでも
どうせ未来は1mmも変わらない”

本当の「美しさ」や、「美しさの実在」を知ることなんてできず、
「自分」という存在に大きく依存している、
とても曖昧なものが世界を「美しく」しているのです。

例え実在なんかなくって、
私たちにとって「美しい」という感情が「良い」ものには変わりないのです。



“嘘じゃない

I'm telling you the truth, no lies.

見えてる現実は一部でしょう。”

上記した通りです。


“表面的、協調性
嫌っているのは
誰でもなく自分”

曖昧だと指摘された「美しさ」。

けれども、それでも、美しさは間違いなく「美しい」。
「それで良いのでは?」とも思う。

けれど、
そんな論理は分かっても
そんな感情にはなれない。


悟ったように他人に微笑んで見せても
自分を欺くことはできない。
なんとも虚しいほどありきたりな葛藤。

でも、
だって、
そんな曖昧なものが、

いや、

そんな「嘘」が、

自分の中の「美しさ」であるなんてことに

とても耐えられない



“Actually
分かってない、何にも
この世界の美しさ、そう、醜さも

Actually
気づいてない、自分自身
理想が邪魔して真実を見失う

そう、実際は思い違い?
そんな心配は臆病な言い訳だ”


美しさが「嘘」であることに気付いた

...ん?

「気付いた」?

気付いてもいないんだ
どっちかなんて分かってない、
「実在」も「嘘」も、どっちも確認のしようがない

そんな曖昧な世界における「勇気」とは、
それでもその「美しさ」を「信じること」。


美しさを感じたことは事実だ。
間違いなく自分は美しさを感じた。

これを「思い違いかも知れない」なんて、

「そんな心配は臆病な言い訳だ」






最後は言い聞かせている感じです。





最後に

以上が
歌詞に関する考察でした。

以上では、断定的に述べた箇所がたくさんありますが、
内容と照らし合わせてみていただきたいです。
断定に意味はありません。




これまでの表題曲との繋がりに関する考察や、
乃木坂46のメンバーと楽曲との対応関係、
それを見る私たちとの対応関係等の考察は次回以降の番外編に書きます。

これらの対応関係からなる多層構造が乃木坂46の妙です。

今回の歌詞考察は「一層目」です。


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