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#2『アングロ・サクソン年代記』古英語-現代英語-日本語対訳「紀元前60年」

今回は紀元前60年の記述を見ていく。筆者の古英語力および英語力は大目に見てほしい。

第二次遠征時のローマ軍進軍ルート




[60BC]¹

Sixtigum wintrum ær þam þe Crist were acenned. Gaius Iulius² Romana kasere³ mid hundehtatigum⁴ scipum gesohte Brytene.
Before sixty years Crist was born, Gaius Julius the emperor of the Romans sought Britain with one hundred and eighty ships.
キリストの生まれる60年前、ローマ人の皇帝ユリウス・カエサルは180隻の船団を伴ってブリテンに来た。

¹カエサルのブリタンニア遠征は紀元前55年と54年である。
²ガイウス・ユリウス・カエサルのこと。
³カエサルはこの時皇帝ではない。これ以後も皇帝になったことはない。ガリア戦争当時は属州総督、死の直前は終身独裁官である。Imperator(命令権imperiumを与えられた公職者。共和制末期には≒軍事指揮官)とすべきか。
⁴第一次遠征では貨物船80隻(2個軍団分)。第二次遠征では5個軍団+2千騎を率いたため約200隻の貨物船?ただカエサル自身は800隻(おそらくありとあらゆる船舶を含めて)と語っている。そもそも年代記の160隻が軍船か貨物船かその両方か何を指すのか分からない。

Þer he wes ærost geswenced mid grimmum gefeohte⁵. 7 micelne dæl his heres forlædde⁵. 7 þa he forlet his here abidan mid Scottum⁶. 7 gewat into Galwalum.
There he was first afflicted with a fierce battle and destroyed a great part of his army. Then he left his army to await with the Scots and departed for Gaul.
そこで彼は初め激しい戦いに苦しめられ軍の大部分を失った。そして彼は軍をスコット人と待機させてガリアに出発した。

⁵特段激しい戦闘はなかった。軍の「大部分」は失っていないと思われる。基本的にローマ軍は嵐に苦しめられた。
⁶カエサルの『ガリア戦記』からは、ガリア帰還に際してブリテン島に軍を待機させた記述はない。もちろんスコット人などという語はでてこない。

ここで第一次遠征が終了する。

7 þer gegadorode six hund scipa. mid þam he gewat eft into Brytene. 7 þa hi ærost togedore geræsdon. þa man ofsloh ðes caseres gerefan. se wes Labienus⁷ gehaten.
And there he gathered six hundreds of ships and with them he departed again into Britain. Then they rushed together. Then a man killed this emperor’s officer who was called Labienus.
そしてそこで彼は600隻の船を集め、ブリテン島に再度出発した。そして彼らはともに急襲した。ある男が皇帝の高官-ラビエヌスという-を殺した。

⁷カエサルの盟友であり筆頭副司令官であるティトゥス・ラビエヌスではないだろう。彼は第二次遠征時、ガリアで三個軍団を指揮し港を護衛していた。『ガリア戦記』にはある行軍中に副官(大隊の?)ラベリウスが戦死したという記述がある。

Ða genamon þa Walas.⁸ 7 adrifon sumre ea ford ealne mid scearpum pilum greatum innan þam wetere⁹. sy ea hatte Temese.
Then they captured the Britons. they(the Britons) staked out the whole ford of a river with sharp and thick stakes in the water. This river is called Thames.
ローマ人はブリトン人を捕まえた。ブリトン人はある川の渡り場全体を鋭く太い杭で囲んだ。この川はテムズ川と呼ばれる。

⁸genamonはgeniman[take, seize, capture]の直接法過去複数である。
 þa W(e)alas[the Welsh, Britons]は複数の主格か対格が考えられる。
 ローマ人を主語とした場合は、ローマ人(主語は明示されず)がブリトン人(対格)を捕らえたことになる。ブリトン人(主格)を主語とした場合、その目的語がのちに出てくるford ealneとなる?
⁹adrifonはadrifan[stake out]の直接法過去複数である。
 sumre ea ford ealneは順番にsum[some, a]の属格、ea[river]の属格、ford[ford]の対格、eall[all, whole]の対格となり、全体でwhole ford of a riverとなる。stake out「杭で囲む(確保する)」するものはford「浅瀬、渡り場」で間違いない。問題は主語が何であるか。⁸の主語をローマ人とした場合、ブリトン人を捕らえ、そのまま進軍し渡り場に得意の土木技術で杭を打ち込むという展開は容易に想像できる。⁸の主語をブリトン人とした場合、ブリトン人がテムズ川の渡り場を奪取(攻略)¹⁰し、杭を打ち込み防御を強化したとも捉えることができる。『ガリア戦記』ではカエサルがテムズ川まで進軍してくるとその対岸にはブリトン人の軍が待ち構えていて、渡り場には杭が打ち込まれ防御が施されている。ローマ軍は騎兵が先導しその渡り場を渡る。これを考慮すると杭を打ったのはブリトン人であると考えられる。
¹⁰しかしブリトン人が自身の領地内の川の渡り場を奪取するというのもおかしい。

8, 9, 10より、「ローマ人がブリトン人を捕らえた」と「ブリトン人が渡り場に杭を打ち込んだ」は別々の文として考えたい。

Þa þet onfundon ða Romani. þa noldon hi faron ofer þone ford.¹¹
Then they found out about the Romans, they did not desire to go over that ford.
ブリトン人はローマ人について情報を得たが、その渡り場を渡りたくなかった。

¹¹ローマ軍進軍の情報を得たが防御に有利な渡り場を捨て攻勢に出なかったということか?

Þa flugon þa Brytwalas to þam wudufe(r)stenum.¹² 7 se kasere geeode wel manega hehburh mid mycelum gewinne.¹³ 7 eft gewat into Galwalum.
Then the Britons fled into the wood-fastness. The emperor conquered nearly many fortresses with a hard toil. And he departed again for Gaul.
そしてブリトン人は要塞のような森林地帯へ逃げた。皇帝は多大な苦労をかけ多くの要塞を占領した。そしてまたガリアへ帰っていった。

¹²『ガリア戦記』ではローマ軍がテムズ川の渡り場を渡った後、ブリトン人は実際に森の中に逃げている。
¹³第二次遠征後、ブリテン島にローマ軍の軍団が駐屯することはなかった。



 

参考文献

カエサル『ガリア戦記』國原吉之助訳, 講談社, 1994.


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