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夢のあとさき-vol.1 ~アフターコロナ時代を生きる~

「元通りの世界」とは、本当に幸せな世界や社会なのだろうか?

「早く、もとの日常にもどりたい…」

出会う人々がため息交じりにつぶやく。
多くの人がそう感じているのだろう。

実際、飲食業や観光業などの深刻な経営状況に立たされている業種などを除けば、家が壊れたり、感染防止のために大金が必要だったりするわけではないというのに、地球規模で起こっているこの変化に誰もが力を失っているような気分を抱えている。

そういう人たちに向けて、早くもアフターコロナの時代を生きるための術を説く動画や、書籍までが出回っている。

多くの人が予想しているように、この「コロナ禍」が一過性の嵐のようなものだとしても、実際は、嵐や津波が去ったあとの世界はやはり元通りというわけにはいかないだろう。たとえ、自粛が解除されたとしても、すぐには元通りの生活に戻れる気がしない人は多いのではないか?

それでも、数ヶ月~数年すれば、この制限も緩み、誰もが望む「元通りの世界」に戻るのかもしれない。しかし、その「元通りの世界」とは、本当に幸せな世界や社会なのだろうか?

なぜ、多くの人は、密集した小さな住宅に住み、他国で大量生産された安価なモノを買い漁っては、それを断捨離できず悩み、そんな生活の維持のために満員電車に乗って仕事に行くことを我慢できてしまうのだろう?

今はそのような疑問を掘り下げ検証するいい時期なのに、人々は目の前の災難をどうやり過ごすかに頭を悩ませているように見える。

今回の外出自粛で、多くの人が家にこもり、やむなくあらゆるメディアの情報を目にする機会が増えたことだろう。私もその一人で、前回お伝えしたとおり、いろんな情報はそれこそ玉石混淆(ぎょくせきこんこう)で、どれが正しいのか間違いなのかの選択に迷わされた。

あらためて、今回ほど「自分軸~自分を見失わないことの大切さ」を思い知った時はない。それぞれの情報や意見は、自分の価値感を決める指針(フィラメント)を刺激するモノにすぎない。
極端かもしれないけれど、何が真実かなんて誰もわからないし、結局のところ正誤なんて見方によって変わるものだから無に等しい。

なのに、世間(とりわけメディアやそれに影響される人々)は、有事(戦時や災害時)にも例えられるような時だからなのか、対立する意見に翻弄されているように見えた。

対立する意見とそれぞれの言い分

その典型が「自粛するべき派」と、「自粛不要派」だ。

それぞれの言い分をまとめてみると…、自粛するべき派は、ウィルスへの脅威や医療崩壊を防ぐため…etc.

不要派は、経済的な問題や自粛による弊害への懸念…etc.(この辺りの議論は、ご存知の方も多いと思う)

自粛派は、命の大切さと政府の要請に従う正当性を錦の御旗としているが、不要派にしてみても、同じ命(自粛による倒産や自死やDV問題)の大切さを説いており、結局のところ、お互いが正統性を主張している。

自粛派も好きで閉じ籠もっているわけではないわけで、そのストレスをぶつけるように、外出している人や、営業を自粛していない店に対して批判をはじめる。

びっくりしたのは、今や「自粛警察」なる輩が往来しているという。開店しているお店に嫌がらせの電話をしたり、張り紙や脅迫状を送りつけるという暴挙がまかり通っている。

お店を閉じている人達にしても、本当は「緊急事態宣言」を受けて閉店しているのではなく、この自粛警察の目が怖くてお店を営業できないひとたちも多いのかもしれない。

国の自粛要請は法律的な強制力はないので、従わなくても違法ではない。自粛警察は、単に「倫理的」な理由で取り締まっているつもりなのだろうけれど、これでは、まるで中世の魔女狩りかナチスのユダヤ人迫害のようだ…。

一方、自粛不要派については、いろいろ意見も異なる。
まったく感染拡大など気にしない自由人もいれば、自粛期間が長引くことで、まごころのある店が閉店を余儀なくされたり、倒産や経済的な不安から鬱になる人が増えたりすることを懸念する人もいる。
また、この自粛により、DV(家庭内暴力)被害の報告が増えていることも事実で、そのことも自粛不要を主張する理由の一つとなっている。

何の罪もない子供らが鍵のない牢屋のような家庭の中で辛い思いをしていることを想像すると心が痛む。

どちらが正しいのか答えは出ないが、いずれにしても皆、何かに制限され不自由な状態にあることは間違いない。

同調圧力に屈した国民は、これらの苛立ちをなんとかしてほしいと政府にぶつけるので連日、抗議のツイートは増えるばかりだ。。
もっともびっくりしたのは、コロナを怖れるあまり、心中してしまった人達までいることだ…。
もともと終末論などを信じるほうでは無かったが、このパンデミック騒動を目の当たりにして、世も末なのかと思う時もあった。

今、私たちは在りたい自分を生きているのだろうか…? それとも、なりふりかまわず、生き延びることだけに夢中になっているのだろうか?

こんな状況を俯瞰してみると、それぞれの意見を対立させることで、人々の意識が分離分断され、本来の人間力が失われていく様子が見て取れる。

もしも、この騒動を人工的に仕組んだ誰かがいたとしたら、彼らの目的は、人々を混乱、分離させ、力を奪うことなのかもしれない…。(小説の読み過ぎ?)

実際に、コロナウィルスの専門家などいない。(いたら、特効薬がとっくに発明されているだろう)だとしたら、人類がこの脅威にどのように立ち向かったら良いかなど、誰にもわからないのだ。
なにもわかっていない中、混乱し、お互いを罵りあうよりも、お互いに知恵を出し合い協力しあうことのほうが得策ではないかと思う。

それに多くの人たちは、自分の意見を持つことや、現実に起こっていることを研究、探究することよりも、誰かの調査結果や意見に日和見的に従っているだけのように見える。それじゃ、まるで忖度(そんたく)ばかりしている政治家と同じではないか?と思ってしまう。

自分のアタマで考えよう

こんな堂々巡りに、ある時思いのほか心が疲れていることに気づいた。

もうそろそろ、自分のアタマで考えたい。
自分の意見を持ちたい→表明したい…と思った。
自分の意見に責任を持つこと。
自分軸を自分の責任で確立することは、自立している証拠なのだと私は思う。

ここで私が今回のコロナ禍について思ったことについて書いておきたい。

つい先日のこと、かのホリエモンが「自粛は無駄だった」と発言したことでネットで炎上していた。
自粛派と半自粛派との議論が白熱しているのを見て思ったのは、自分がこの問題を解決しなければいけない立場だったら、どうしていただろう?…ということだった。

もし私がリーダーだったなら、ロックダウンも緊急事態宣言も出さないだろう。※別に私はホリエモン派ではアリマセン(^_^;)

理由は、ウィルスの性質を調べてみて、(たとえ、これが自然のものであれ、人工的に作られたものであれ)発生してしまったウィルスを世界から抹消することは数年では不可能だということが解ってきたからだ。 

よく、ウィルスを細菌と混同してしまうことがある。
手をよく除菌して…とか云うように。根本的にウィルスと細菌は異なる。
細菌とは人間の身体を構成している要素そのものだと云って良い。私たちの人体には約 60 兆個の細胞より成り立っている。一方では、腸管、口腔、体表などには 100~1000兆個もの共生微生物が生息し、人間という生命体に利益を与えてくれている。数の上では共生微生物の数が人の細胞数を圧倒しているわけだ。即ち、人間の身体は 9 割が細菌ということになる。

一方、ウィルスは地球上に30億年前から生存していると云われる。また、ウィルス自体は単体では繁殖することが不可能であることから宿主となる生命体の細胞にとりつき、増殖するという性質を持っている。
ウィルスの場合、これに感染した後、細胞に寄生しているウィルス自体を治療することは難しいらしく、主に免疫機能に働きかける方法が一般的だという。

よく、風邪薬は効かないと耳にするけれど、インフルエンザウィルスなども未だに特効薬は無いといわれている。よく聞くタミフルなどは、特効薬ではなく単に感染初期のインフルエンザウィルスの増殖を抑える機能しかない。
ワクチンにしても賛否両論で、予防接種した人のほうがかかりやすいという報告が多い。

つまり、自然界に発生したウィルスを物理的に末梢することは現在のところ不可能で、唯一、人間自身の免疫機能を高めることが唯一の解決策のように思える。

免疫力は、細胞があらゆる菌との闘いによって培われていく性質上、無菌状態で高めることはできない。病気をしながら成長していく赤ん坊がそうであるように、人類は罹患しながら免疫機能を高めて、現代に生命を繫いで来たのだろう。

つまり、自粛を続けていれば、ウイルスとの接触を最小限に保つことはできるかもしれないけれど、それでは刑務所に入っているようなものだ。

しかも、アメリカで自宅で3週間も籠もりきりの女性が感染してしまった例もあるらしいので、やはり完璧に防衛するなら病院の無菌室に籠もらなければ安全ではなさそうだ…。

外出禁止が続く米国に衝撃 自宅に3週間こもり続けた女性が新型コロナに感染

実際、コロナウィルスは人を介して感染するリスクよりも、モノを介して感染するリスクのほうを心配するべきだという論理もある。
つまり、感染を心配するなら、スーパーから買ってきたすべての食物を消毒する必要があるということだ。
もちろん、外出して帰ってきたら入浴と洗濯や消毒を徹底しなければいけない。それって、マジでつづけられる人っているの?と思ってしまう。

スペイン風邪の事例を挙げる研究者も多いが、その論理を採用するなら2~3年の自粛が必要となるだろう。

インフルエンザウィルスを怖がる人が少ないように、しばらくすれば、この騒ぎは収まる可能性は高いが、収まるまで自粛と解放を繰り返していると、心のほうが疲弊してしまいそうだ。

こんな風に所説をまとめた私の意見にしても、所詮、専門家でもないし、何も証明もできないし、実際に、新型コロナウィルス(COVID-19)が、人工的に作られたものであるという説もあるのだから真相は計り知れない。

今は自分軸を大切に

しかし、こうして人類の脅威について真摯に向きあってみて気づいたことは、私たち人間は、ウィルスであろうと黴菌であろうと、対立する他者であろうと、抗いながらもそれらを取り込んで(受容して)しまわない限り、衰弱して最後は自分が死ぬしかない未来に向かっているということだった。

同じように、人の目を気にして、自分の考えを隠したりすることは、心(自分)を殺すようなものだ。

人と意見が違うこと、対立することはとても自然なことなのだ。問題は、それに妥協し同調することだろう。実際に、今回の騒動で一番ストレスフルなのは、他者の目を怖れるマインド(同調圧力に屈すること)のほうなのだ。
人目を気にする時、自分軸は消失し、常に他人軸で考え行動することになる。 そんな人達は、やがて人に追従することが楽になり、むしろコントロールされることを臨むようになってしまう。

しかし、それでは真の幸せなど実感することなど不可能だ。少なくて、私はそんな人生を歩むことは望まないし、こんな時勢を否定的に捉えることも望んでいない。

もし、否定的にモノを見るとしたら、長いものに巻かれる習性も、忖度も、日和見も、日本人の弱点と云えるだろう。

しかし、この日本人の習性を肯定に捉えてみることにしてみると、協調性、協力、相互理解、共生、共存する能力…というイメージに変換させることもできる。 

もしも、人類が自分自身の考えを尊重しながら、他者の考えも尊重し、共存することができたら世界は一変するだろう。

ウィルスを怖れ、感染したくない人がいたら、その人達を尊重し、彼等が安心して篭もれるシェルターを作ればいい。また、感染症を抱えている人々や老人を安全に隔離することができたら、その経費のほうが、感染者を隔離したり国民に給付金を出すよりも出費を抑えることができそうだ。罹患することよりも自由を束縛されることを怖れる人同士が経済活動に従事することを理解すればいい。

そして何よりも、ワクチンの副作用を心配するよりも、免疫を高める方法を研究するほうが身体には優しい。

自分の意志や自由を尊重され、それによって課されるリスクやメリットを受けとる責任を果たすことは、人間としての基本的な人権なのだと思う。

政府は、人民を扇動したりコントロールせず、自由と可能性を追求するシステムと場造りに従事することが望ましい。

自分軸を杖に、この先にある夢に向かって

コロナウィルスの出現は、確かに過去の生活を維持しづらい状況をもたらしたけれど、私はこの経験から既に沢山のギフトを受けとっている。

何よりも、地球がとても喜んでいるように感じるからだ。たった数ヶ月の間に、ガンジス河が透きとおり、スモッグで覆われて見えなかったヒマラヤ山脈が現れ、海や川が綺麗になって来た。

毎日散歩する鎌倉の海がまるで沖縄の海?(笑)と見紛うほど綺麗になり、春の富士山も美しく眺められるようになった。

そして、多くの人の意見を見聞きすることができた。これまで知らなかったワクチンの怖さを知ることが出来たことや、人類の生命潮流の歴史について掘り下げる機会が持てた。

多くの人が自分の考えを持つことを怖れていることもわかった。情報に翻弄される脆弱な私たちは、誰もが真実を見ようとしなかったし、行動することを怠っていたことにようやく気づくことができた。

世界各国の政府は、相変わらすコロナウイルスの恐ろしさを訴え、ワクチンの完成を待ち望んでいるらしいが、多分私は一生接種することは無いだろう。

アフターコロナの世界は、きっと様変わりしているはずだ。わたしにとってのビフォーコロナの生活は、満足できるものだったけれど、これからの世界のことを考えると、今からワクワクしてして止まない。

もしかしたら、私が今までやってきた仕事は一変するかもしれないし、セラピーなどが無くなる日がやってくることも予見されるが、それも良いと心から思える。

なぜなら、この体験を通して、沢山の影を統合したことで、もっとやりたい夢が見えてきたからだ。

自分で考えるということは、人の意見を無視するということではない。むしろ、人の意見を沢山聞き、自分の目で確かめ、数多の情報から選別し決断することが大切だ。そして、その選択には自分軸を持つことがもっとも大切なのだ…と、私は思う。

その自分軸を杖に、この先にある夢に向かって、この禍の時を乗り越えて行きたいと思うのだ。

大切なのは、疑うものを否定するのではなく、信じられるものを探すこと

以上は、私がこの数ヶ月で気づいたことであり、目下の私の考えだ。もちろん、これと異なる意見の人は多いと思うけれど、そんな時は自分の目で調べ、確認してほしいし、良かったら違う考えを知らせて教えてほしい。

私が伝えたいことは、私の意見であれ、どこかの学者の考えであれ、お釈迦様の言葉であれ、それらをすべて鵜呑みにするのではなく、まずは、自分の中で咀嚼しながら考えてみてほしいということだ。

もしも共感するとしても、何に共感するのか、何に違和感を感じるのか、疑わしいと感じたら、その根拠を自分の目や足で見て調べて欲しい。
疑うことは、否定的な波動だが、疑って先に信じられる根拠と出会ったなら、それは信頼という肯定的な波動に変わる。
大切なのは、疑うものを否定するのではなく、信じられるものを探すことだ。

自分が納得いくまで手応えのある自分なりの真実をさがしてほしい。
そして、それが見つかったら、大切な誰かとその意見をわかち合ってみよう。たとえ、理解されなくても、「これが自分の意見なのだ」と胸を張って、異論を聞く耳を持ってほしい。

そのプロセスと熱意が、自分軸を強くしてくれる一つの方法だから。

あなたにとってのアフターコロナの時代が夢見る未来へと続くのか、または、ビフォーコロナの時代へとつづくのかは、その熱意と取り組みによって変わることだろう。(つづく)