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アトリエシムラ「学びの会」 新作能『沖宮』をめぐって -宝生和英 × 志村昌司 対談レポート その3

作家・石牟礼道子。染織家・志村ふくみ。
自然と人間の関係に真摯に向き合いながら仕事に打ち込んできた両者が、東日本大震災による原発事故を契機に完成させた新作能が『沖宮(おきのみや)』でした。
2018年に、熊本、京都、東京にて上演。石牟礼道子の魂の言葉と、それを草木のいのちの色で表した志村ふくみの装束の共演は大きな反響を呼び、2021年6月には京都での再演が決定しました。
「自然と人間」、「生者と死者」をつなぐ鎮魂の芸能である能の形式を通じ、
二人がこの作品に込めた「いのち」のメッセージは、今ますます強く私たちの胸に響きます。
今回は、2021年3月12日に行われた宝生和英氏と志村昌司のオンライン対談を、一部抜粋してお届けいたします。(全3回)

新作能『沖宮』あらすじ
島原の乱の後の天草下島の村。 干ばつに苦しむ村のために、雨の神である竜神への人身御供として、亡き天草四郎の乳兄妹の幼い少女あやが選ばれる。緋の衣をまとったあやは緋の舟に乗せられ、沖へ流されていく。舟が沖の彼方に消えようとした瞬間、稲光とともに雷鳴がとどろき、あやは海に投げ出される。あやは天青の衣をまとった四郎に手を引かれ、いのちの母なる神がいるという沖宮へ沈んでいく。そして、無垢なる少女あやの犠牲によって、村に恵みの雨が降ってくる。

【話し手】
宝生和英:能楽師、宝生流第20代宗家
志村昌司:atelier shimura 代表、新作能「沖宮」公演実行委員会 代表

宝生和英(ほうしょう かずふさ)
昭和61年東京生まれ。父、第19世宗家宝生英照に師事。宝生流能楽師佐野萌、今井泰男、三川泉の薫陶を受ける。平成3年 能「西王母」子方にて初舞台。平成20年に宝生流第20代宗家を継承。これまでに『鷺』『乱』『石橋』『道成寺』『安宅』『翁』、一子相伝曲『双調之舞』『延年之舞』『懺法』を披く。伝統的な公演に重きを置く一方、異流競演や復曲なども行う。また、公演活動のほか、マネジメント業務も行う。海外ではイタリア、香港を中心に文化交流事業を手がける。第40回松尾芸能賞新人賞受賞。
志村昌司(しむら しょうじ)
染織ブランド・アトリエシムラ代表、芸術学校・アルスシムラ特別講師
1972年、京都市生まれ。京都大学法学研究科博士課程修了。
京都大学助手、英国大学客員研究員を経て、2013年、祖母・志村ふくみ、母・志村洋子とともに芸術学校「アルスシムラ」を、16年に染織ブランド「アトリエシムラ」を設立。


能のバックボーン

志村:今、夜能に集まってらっしゃる方々というのは従来の能楽のファンの方とは別の層の方々ですか。

宝生:そうですね。そういう朗読だったり、物語をじっくり聞いたりする人が好きな人たち。で、あとは声と、声質とか、音とかにものすごくこだわりのある人たちですね。

志村:夜能のこと、前提でしゃべっていますが、知らない方もいらっしゃると思うので、少しお話ししていただけたら。

宝生:あんまり時間を取れないので(笑)。2018年からやっている公演でして、能楽の前にその舞台に携わる演目の朗読を聞いたあとに能を見ると、自然にストーリーがわかるようになる。これはよく能楽の前に解説が欲しいと言われるので解説を入れるのですが、どうしても中身がアカデミックになりすぎてしまって、僕なんかは舞台楽しみに来ているのになぜ講座を受けなければいけないのだろうって、すごくそれが嫌だったんですよ。

宝生:舞台だったら、理解をするためには同じ舞台のものでつなげたほうが美しいという感覚があったので、きちんと朗読用に書き下ろして、音楽もつけて、朗読舞台としてきちんとしたものを作って、それと能をくっつける。そういったかたちの公演ですね。

志村:まず筋がわからないと、本編というか、能だけ見てもなかなか理解できないものですよね。

宝生:それだけではなくて、能楽だとそういうエピソードとかをわかっている前提で組んだりしているので、登場人物とかのバックボーンとかをかなり無視していますよね。普通、映画とかを作るときというのは、最初のときに登場人物の肉づけが必要ですよ。どういう人物で、どういう思考を持っていて、どういうようなキャラクターなのかという。

宝生:そういう段階を全部すっ飛ばしてスタートしてしまうので、そういった意味では、それは「シンプル」というよさでもありつつも、バックボーンとかを知っておいたほうが自分の中で肉づけしやすくなるというのはありますね。これも言い方しだいで、そういうのがあると邪魔だと思う人たちは、そういうのがない公演に行けばいい話であって。

志村:そういう前提がいろいろあるのがすっ飛ばされても理解できた時代というのは、江戸時代までですか。当時は皆さん、すっと理解できたのですかね。

宝生:難しいですね。中には、別に理解してないが楽しいという人もいたとか、例えば、細川幽斎(ほそかわゆうさい)*なんかは、それはそれで勉強だから、勉強することが大事なのだという感じの人もいたし。あとは別に内容は面白くないが、能を自分で稽古してみて、それが自分の体を鍛えるのにちょうどよかったというので愛好した人もいるから。

*細川幽斎:丹後国(現・京都府北部)を拠点とした戦国大名。隠居前の名前は藤孝(ふじたか)。文武両道に優れ、古今伝授(『古今和歌集』の解釈や秘説を師より受け継ぐこと)の継承者としても知られる。

志村:大体、今の現行曲ができたのは江戸時代までの曲がほとんどですかね。

宝生:そうですね。江戸時代以降には残っている曲というのはほとんどないですね。

志村:ということは、室町とか、安土桃山ぐらいから江戸の初期ぐらいが一番多産だった時期ですか。

宝生:一番多いのは室町時代と江戸時代ですね。戦国時代はあまり何かを生み出す時期ではないなって、それはあらゆるものがそうだったと思いますが。大体、芸能は産業が先行して成長して、そのあとをついて成長していくんですよ。だから、室町時代も、その前から日明貿易とかでどんどん産業が成長したから、その後追いで世阿弥(ぜあみ)*とかが成長したわけでして、戦国時代というのは産業革命ですよね。いろいろな新技術が今度はヨーロッパと直でつながったりとかして。そのあとに江戸時代になって、その技術とか思考というものが追っかけてきて文化が成長するという。

*世阿弥:南北朝〜室町期の能役者・能作者。父は観阿弥(かんあみ)。親子ともに能の大成者で、観阿弥は「能祖」、世阿弥は「能聖」と称される。世阿弥は能楽論書『風姿花伝』の著者としても名高い。

志村:そう見ると、また面白いですね、芸能の盛衰というのを産業という視点から見ると。

宝生:そうですね。だから、芸能は産業が成長しないことには成長しないというのは、これはもう世界共通だと思いますね。


演者の個性を役に反映する

志村:今回、『沖宮』はまだ舞っていただいていないので、お稽古はまだこれからだと思いますが……

宝生:(笑)。そうですね。先ほどトークの打ち合わせをしたときに、えーって言われたのが、演劇などの舞台って普通、1カ月とか、がしーってやっているようなイメージがあるのですが、能楽師の場合って単発公演なので、その準備に使う時期というのが割と短いんですよね。集中して一定時間でやる感じなので。だから、ほかの舞台があって、まだ『沖宮』まで手が回ってない(笑)。

志村:謡本の暗記というのはそんなにすぐできるものですか。

宝生:いや、僕は怖がりなので、初めてのものは1カ月前とか、すごく早めに動くほうですよ。頭のいい人は1週間とかで覚えられるのですが、僕は毎日少しずつやっていくタイプなので、大体1カ月から半月ぐらいかかるんですよね。

宝生:まず暗記するのがスタート。暗記しなければ始まらないのですが、そこから「練り」といわれる、僕が勝手に言っているだけですが、自分の考えを落とし込んでいく段階になるんですね。こういう感情があるのではないかとか、こういうイメージなのではないか、みたいな自分の勝手な個人的なものをがんがんつけて、それを稽古で先生に見てもらう。それで、先生の解釈とかアドバイスを聞いて、そこから削ぎ落としていって本番に持っていくというのが流れですね。

志村:これまで新作能もたくさん出られていますか。

宝生:たくさんではないですが、何回かは出ていますね。

志村:やはり古典の能と新作能では違うのではないでしょうか。

宝生:全然違います。練度が違いますよ。やはり過去の人たちの文献とかで、その人たちが何を考えていたのかというのはいい参考になるので。でも、新作はそれがないから、だから、解答が見つけづらいところはありますね。

志村:そうですよね。で、そういう意味では『沖宮』って2018年に3回公演しましたが、まだまだ本当にわからないですね。練度がこれからなので。

宝生:(笑)。そうですね。それが魅力でもあると思いますよ。練度がある弱点としては、一部の人からの先入観で、この曲はこうではなきゃいけない、みたいなのがよくありますよ。今の人たちの解釈と昔の人のものは全然違う。

宝生:例えば、弁慶の役をやります。それで、『安宅(あたか)』*って曲をやったのですが、昔の人は昔の大映映画みたいなケレン味あふれる弁慶を求めたいところがあるのですが、最近は人物の裏側まで描くことが主流になってきて、そうなると、弁慶の必死さだとか、少し頼りない心というところも、自分が追い詰められている気持ちというのも表現したいという欲が出てくるんですよね。そうすると、求めているものと自分のやりたいものというのが違う方向にいってしまったりする。

*『安宅』:兄・源頼朝と不仲になった源義経は、家臣の弁慶らと共に山伏姿に身を変えて奥州へ落ち延びようとする。道中、加賀国・安宅の関で見咎められた一行は一計を案じ、東大寺再建の勧進聖だと偽って関を通ろうとする。弁慶による勧進帳の朗読が見所の一つ。

志村:それは曲の解釈とか演じたい内容によって、謡と舞もどんどん変わってくるということですか。

宝生:変わりますし、あと、体型と声質とかも影響しますよね。例えば、僕なんかは割と小柄なので、弁慶をやるにしても、従来の人の感覚でやると少し頼りなくなるんですよ。やはり小さいからこそ必死さだとか、主君を守ろうとするような、自分の力の精いっぱい頑張るぞという一生懸命の空間を作らなければとか、そういう思いになりますね。

志村:そういう自分というキャラクターの分析まで含めて能をするというところに、皆さんいかれているということですか。

宝生:もう本当に、そこに尽きると思いますよ。誰がやるかですよ。能楽師って演じないので、演劇で言えば憑依型になれないのですよね。素材型というか、その人物を誰がやっているかがとても大事になってくるので、舞手の感覚、個性というものをきちんと自分自身も理解しないと、結局空回りするというのはよく見えますね。

宝生:うちの父親なんかはまさにそれで、自分の得意分野とほかの、あこがれていた人がいたんですね。その人のまねをしようとして自分の能力以上のケレン味を出そうとして、それで自分の舞台がわかんなくなって自己崩壊を起こすようなこともあったりして……というのを見ていたので、もちろん挑戦的なことはするにしても、あからさまに間違った方向に進むということはしないようにしていますね。自分のポテンシャルを最大限に発揮するというのを一番の目的にしています。

*父親:19世宗家・宝生 英照(ほうしょう ふさてる)氏のこと。

志村:そういう意味では、師と弟子の関係というか、やはり偉大な師匠とかが近くにいると、危険と言ったら語弊があるかもしれませんが、その人にはなりきれないわけじゃないですか。自分とは違う人格なのだから。

宝生:そうですね。

志村:そこの出発点が難しいところかもしれないですね。

宝生:なので、大事なことは、やはり引き出しが多いほうが僕はいいと思っていて。みんながみんな器用にできるわけではないから、それが必ずしも正しくはないのですが、ただ、僕なんかは5人ぐらいに最大同時に習っていたというのもあって、それぞれの先生に言われたことが全然違うんですよね。でも、それでいいと思っていて、その先生が求めるように自分が表現する。

宝生:だから、それだけで5つのパターンができるのですね。今日はこのパターンでやろう、今日はこっちのパターンでやろうということがあったり、場合によっては、今日はフィジカル的にこっちが無理だから、こっちの方向で何とか切り替えようとかアジャストしようみたいな、そういう切り替えもできたりするのですね。

志村:そこは見ているだけではなくて、実際にやっている方にしかわからない、いろいろなところがあるのですよね。

宝生:そう。だから、今回の、まさに大妣君(おおははぎみ)になったということはそこだと思っていて、龍謹さんが、もし僕がやるのであれば女性の役のほうがいいのではないかというのは、それは彼はすごくよく僕の舞台を見ていてくれるなといううれしさもありつつ、まさにそれですよ。

宝生:恐らく永謹先生*、金剛宗家の芸風と僕は、もちろん比べるまでもなくやはり金剛宗家のほうが圧倒的に上ではあるのですが、まず体型も違うし、謡の質も違う。僕ははっきり言って、龍謹さん、金剛宗家よりも立派な父性を持った大竜というのは絶対表現できないと思います。

*永謹先生:金剛流26世宗家・金剛永謹(こんごう ひさのり)氏。2018年の『沖宮』では「龍神」を勤めた。

宝生:その反面、この小柄さであったりとか、悲哀の、陰(かげ)の、陰(いん)の部分の謡で表現できる宝生流のふし使いというのは、女性的な、まるで月のほうを象徴するようなキャラクター像というのは作りやすいのかなと、自分では思ったりしますね。

志村:今のお話しを聞いていると、得手不得手というか、自分に向いている、向いていないというのが、曲でも出てきますね。

宝生:いや、本来はそれを自覚しないといけないと思いますよ。

志村:でも、自分に向いている、向いていないという話はあんまり出されないというか、自分はこの曲は苦手だとか、そういうことは能楽師の方からはあんまり出てこないですよね。

宝生:いや、近年だと思います。昔は各家元が自分の得意曲と苦手曲をうち外で分けていたのですよ。うちというのが自分の得意で、外というのは苦手というか、遠い。それでも外の公演見たいから外の曲やれと言われたりしたらやらなければいけないのですが、やはりその時代の人たちというのは一通りできるが、自分の得意なのはこれだよというのをきちんと認識していたと思うのが、何かいつの間にかそういうのはよくないみたいな風潮になっていましたね。でも、観世寿夫*とかは、自分はこの曲好きだが、これはやりたくないってきちんとはっきり言っていましたがね。

*観世寿夫(かんぜ ひさお、1925-1978):観世流シテ方。戦後を代表する能楽者。古典を継承する一方、現代演劇や音楽など他分野と積極的に交流するなどあたらしい演劇運動にも参加した。

志村:何かお能って満遍なく全曲やれないといけないとなっているように見えるのですが、そうでもないのですか、一能楽師として。

宝生:僕は、プレイヤーとしてみたら、苦手曲は極力やりたくないですね。

志村:それを克服するとかいうよりかは、ですか。

宝生:まあ、役がついたときにはもちろんやりますが、だったら僕である必然性はなくないかと思うときはあったりするんですよ。きちんとここ一番を見せたいときには、僕だったらこれを見てほしいというのはあるから、それは用意しといて、ここ一番というときにはそういった曲をご提供するというのが大事かなと思いますね。


自身の変化に応じて見え方も変わる

志村:今度の大妣君というのは、全く初めての役ですね。

宝生:(笑)

志村:2018年(初演)にやっていないので、もう宝生さんの舞とか解釈が最初のスタートになるので、そういう意味では僕らも楽しみというか。テキストでしか僕らも読んでいないのでわからないのですが、石牟礼道子さんは非常に大妣君に対して思い入れがあって、母性の象徴として登場する人物ですので、母性というものを能楽で表すとどうなるのかということですかね。

宝生:そうですね。僕は今回参考にしているのは『海人(あま)』という演目です。一昨年やったのですが、面白かったのが、僕に子どもができる前とできたあとで見え方が全然違ったのですね。できる前は全然わからなかったのが、できたあとだと母親が子どものために自分の命を惜しまないという献身性をすごく近くで見ていたので、その謡を歌うときに泣きそうになるんですよ。何となく、その気持ちがわかってくると。母親は自分の命を引き換えにしても子どもを守ろうとする、という感覚。

宝生:『海人』のあらすじ、難しいので、もしよろしければ、ご興味があれば調べてみていただけると。自分の息子を大臣にするために命をかけて、宝の珠を取りに行ったお母さんの亡霊の話ですね。後半で龍神になって息子と再会するみたいな感じですが。

志村:もう既に能の中に、そういう母性的なものをテーマにしたものはあるということですね。

宝生:そうですね。

志村:以前、金剛さんも、お子さんができてから能の見方が変わったっておっしゃっていました。たしか『隅田川』*だったと思いますが、やはり特に親子が出てくるものなどはそうなのかもしれないですね。

*『隅田川』:「狂女物」の1つ。愛する我が子を拐かされ、都から武蔵国・隅田川まで子を訪ね歩くうちに狂女となった母親の悲嘆を描く。

宝生:そうですね。なので、僕は、能楽を見るのは30歳を超えてから、ある程度人生経験を積んで、失敗とか、人間の負の面を理解できるようになってからではないと、正直つらいと思いますよ。子どもがいるかないかというのはその人のご家庭の方針もあったりするので、それは大事ですが置いといたとして。だから、急いで見る必要はないと僕は思っています。

志村:そうですね。僕らが最初に石牟礼さんの話を聞いたときに、なぜお能なのか、割とプロットのある原作なので現代能や現代劇もありうるかなと思ったのですが、『沖宮』はやはりお能で、と石牟礼さんがおっしゃっていて。能でしか持ち得ない魅力というか特徴、それはやはりチルということになるのですかね。ほかの芸能と違う点は。

宝生:そうですね。要は見方を限定しないので、自分の今の置かれている心境だとか状況を映せる楽しみ方があるので。今回、映像でも配信されるのですよね。一回実地でご覧になったりして後でもう一度映像で見返してみるとか、実地に行けない方は映像で見て半年後にもう一度見てみるとかすると、絶対、時期とか、今の置かれている環境が変わると見え方が変わるので、面白いと思いますよ。そして、それを見て思った感情というのが、今の自分の状態を表すパラメーターにもなるので。

志村:鏡みたいな芸能というか、自分の変化に応じて能の見え方も変わってくるということですね。

宝生:そうですよね。エンタメの基本というのは、演者からほとばしる気を当てることで触発させるものだと僕は思います。でも、能楽とかチル系のものというのはその反対だと思っていて、こちら側は吸い取る側であって、自分はこうだということを押しつけてはだめだとは思っています。

宝生:なので、先ほどの「一回詰め込んだあとに削ぎ落とす」というのは、押しつけすぎると相手にとって余計な雑味になるので、自分らしさというのを一回引く作業が必要ということですね。

志村:面白いですね。

宝生:うん。だから、今回の『沖宮』なんかだと、僕がすごく面白いと思ったのは、ある意味、サクリファイス(犠牲・生贄)の話なわけですよね。現代的な感覚で見ると、僕はあんまりサクリファイスっていいイメージを持たないなと。何か命を取る代わりに何かを助けてやるって、悪いやつのせりふのように聞こえてしまって、悪魔との契約みたいに思っちゃう。

宝生:そこを、例えば安徳天皇(あんとくてんのう)の入水とか、逆にそれが救いにもなるようなシーンも描けるなと思って。取り引きのようなサクリファイスではなくて、生死というのは断定せずに、大妣君の救いが光のように降り注いで極楽浄土に迎え入れるというプロセスをどう描くかとか。

宝生:そこをお客様が感じるかもしれないし、もしくは今、追い詰められている人が見たら、そういう何かを条件にやっているような魔女に見えるかもしれないとか。別にこれがいいとは思わないですが、そういう、人によって変化をするようなゆとりを持たせたいなと思いますね。

(了)


「新作能『沖宮』をめぐって -宝生和英 × 志村昌司 対談レポート」は以上となります。ご愛読ありがとうございました。
2021年6月12日(土) 新作能『沖宮』 オンライン視聴権販売のお知らせ
2021年3月31日まで募集しておりました『沖宮』再公演に向けたクラウドファンディングは、みなさまの温かいご支援により無事に達成することができました。
公演の観賞チケットならびにオンライン視聴チケットは、当初クラウドファンディングのリターンとしてのみご用意しておりましたが、プロジェクト終了後に多くの方々から「ぜひ沖宮をみたい」とのお声をいただき、検討の結果、オンライン視聴権の販売のみ継続させていただくことになりました。
当日のライブ配信ならびに後日のアーカイブ配信をご覧いただけるチケットとなっております。この機会にぜひご覧ください。
*クラウドファンディングとオンライン視聴権の詳細はこちら
https://the-kyoto.en-jine.com/projects/okinomiya2021
*オンライン視聴権のお申込みはこちら
http://ptix.at/7wimwW

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