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アトリエシムラ「学びの会」 新作能『沖宮』をめぐって -金剛龍謹 × 志村昌司 対談レポート その3

作家・石牟礼道子。染織家・志村ふくみ。
自然と人間の関係に真摯に向き合いながら仕事に打ち込んできた両者が、東日本大震災による原発事故を契機に完成させた新作能が『沖宮(おきのみや)』でした。
2018年に、熊本、京都、東京にて上演。石牟礼道子の魂の言葉と、それを草木のいのちの色で表した志村ふくみの装束の共演は大きな反響を呼び、2021年6月には京都での再演が決定しました。
「自然と人間」、「生者と死者」をつなぐ鎮魂の芸能である能の形式を通じ、
二人がこの作品に込めた「いのち」のメッセージは、今ますます強く私たちの胸に響きます。
今回は、2021年2月19日に行われた金剛龍謹氏と志村昌司のオンライン対談を、一部抜粋してお届けいたします。(全3回)

新作能『沖宮』あらすじ
島原の乱の後の天草下島の村。 干ばつに苦しむ村のために、雨の神である竜神への人身御供として、亡き天草四郎の乳兄妹の幼い少女あやが選ばれる。緋の衣をまとったあやは緋の舟に乗せられ、沖へ流されていく。舟が沖の彼方に消えようとした瞬間、稲光とともに雷鳴がとどろき、あやは海に投げ出される。あやは天青の衣をまとった四郎に手を引かれ、いのちの母なる神がいるという沖宮へ沈んでいく。そして、無垢なる少女あやの犠牲によって、村に恵みの雨が降ってくる。

【話し手】
金剛龍謹:能楽師、金剛龍若宗家
志村昌司:atelier shimura 代表、新作能「沖宮」公演実行委員会 代表

金剛龍謹(こんごう たつのり)
1988年、金剛流二十六世宗家金剛永謹の長男として京都に生まれる。幼少より、父・金剛永謹、祖父・二世金剛巌に師事。5歳で仕舞『猩々』にて初舞台。以後『石橋』『鷺』『翁』『乱』『道成寺』『望月』『安宅』など数々の大曲を披く。自らの芸の研鑽を第一に舞台を勤めながら、大学での講義や部活動の指導、各地の学校での巡回公演など学生への普及活動にも取り組む。2012年に発足した自身の演能会「龍門之会」をはじめとして、京都を中心に全国の数多くの公演に出演。同志社大学文学部卒業。京都市立芸術大学非常勤講師。公益財団法人金剛能楽堂財団理事。
志村昌司(しむら しょうじ)
染織ブランド・アトリエシムラ代表、芸術学校・アルスシムラ特別講師
1972年、京都市生まれ。京都大学法学研究科博士課程修了。
京都大学助手、英国大学客員研究員を経て、2013年、祖母・志村ふくみ、母・志村洋子とともに芸術学校「アルスシムラ」を、16年に染織ブランド「アトリエシムラ」を設立。


演目を繰り返してなじんでいく

志村:この『沖宮』は2018年に初演だったのですが、初演が終わったときに、やっぱり曲っていうのは1回やっただけじゃだめで、何回も繰り返してやることで意味がだんだんわかってくるってお話もありました。初演のときは、熊本と京都と東京って3回やりましたけど、その3回の中でもだんだん深まりっていうのはあったんですか。

金剛:そうですね。やはりありましたね。やっていく中でだんだんなじんでくるというのはありますね。能の演目っていうのはそういうもんだと思います。能の修行自体がそうなんですけども、私の祖父も、「1回舞ったぐらいでやったなんちゅうことは言うな」ということを言われましたけども、初演したぐらいでは曲のことを分かったとは言ってはいけないという感じはしますね。

志村:いわゆる古典の曲って、金剛流さんでも200曲ぐらいあるんですか、今、現行曲で。

金剛:そうですね。うちの流儀で207番でしたかね。

志村:でも、それ、一通りやるだけでもものすごいことですよね、207番全部やるっていうのは。

金剛:いや、全曲、お客さんの前でやりきった人っていうのは、能楽界でもほとんどいないんですよ。私の父でも160番ぐらいじゃないのかなと思うんですよね。やっぱり能の演目も200番以上あると、曲の出来、不出来がある程度あるんですよね。やっぱり昔から、定番の曲というか、名曲として扱われている曲もあれば、少し上演頻度の少ない稀曲みたいなんもありまして、そういう稀曲の中にも上演してみると非常に面白い曲っていうのもあるんですけども、どうしても公演ではメジャーな曲を上演することが多くなります。

志村:いわゆる大曲ってあるじゃないですか、披キ物(ひらきもの)*とかいうんですか。『道成寺』みたいな、ああいう曲を舞う機会っていうのは、何年かに一遍とか、下手したら10年に一遍とか、それぐらいになってくるんですか。

*披キ:修行を詰んだ能楽師が、宗家の許しを得て特別な演目を初めて演じること。該当する特別な演目を「習(ならい)」と呼ぶ。代表的なものに『道成寺』『石橋(しゃっきょう)』『乱(みだれ)』などがあり、技術的・精神的に高い水準が求められる。

金剛:大曲といってもいろいろですけども、『道成寺』は、能楽師は生涯の中でどれぐらい舞う機会があるかっていうの、人によって違いますよね。私は『道成寺』は去年の夏に舞わしてもらって、今年も夏にもう一回『道成寺』舞うんですけども、これでやっと4回目なので、そんなに舞う機会はないですよね。

金剛:非常に『道成寺』やる機会は多かったといわれている私の曽祖父が、30回弱ほど舞ったそうです。生涯のうちにそれだけ舞う人はなかなかいないですからね。曲によっては生涯のうちに舞えなかった曲というのもありますのでね。

金剛:というか、舞いきることが目的なのか? みたいなところもあるんですよね。能の世界には老女物(ろうじょもの)という、能の一番最奥義といいますか。老女の役柄を演じるということは最も困難とされているんですけども、その老女物の演目が5曲ありまして、金剛流では昔から全曲やりきるなっていうんですよね、生涯の中で1曲は残すものだと。

志村 (笑)。

金剛:世阿弥も言っておりますが、命には限りあるけれども、能には限りはないという、そういう気持ちを持ち続けないといけないんだというところはあると思います。私の曾祖父は結局、老女物の『関寺小町(せきでらこまち)』はやらなくて、自分の棺桶に入れて謡本を焼いてくれと言ったそうです。向こうでやるからと。そういう考え方は、能の世界にはあるんじゃないかなと私は思いますね。


変革の中で新しいものが生まれる

志村:今度の6月にやろうとしている『沖宮』は、少し演出の変更がありますよね。宝生さんがいらっしゃって大妣君(おおははぎみ)という役が出てくるんですけど、竜神から今度、大妣君に変わった点、いろいろ私たちの中でお話もしましたけど、金剛さんから見られて、その大妣君の役柄っていうのはどう思われますか。

金剛:前回は男の竜神だったのが、今回、宝生のご宗家に来ていただいて、竜女、「沖宮」では大妣君になるんですが、原作をどういうかたちで読み解くか、ということだと思うんですよね。大いなる父のようなのか、それとも、何もかも包み込む母のようなイメージなのか、今回、新しいバリエーションができたということですが、実際やってみないとわからないことが多いですよね。実際に演じてみて、どういうものが出来上がるかというところで、今後のやり方というのも色々考えるところができてくるのかなと思いますね。

志村:金剛さんで見せていただいた竜女の装束は、紫に蓮の文様が入っていますね。ある程度、流派を越えてそういう装束が多いんですか、もともとの竜女の装束は。

金剛:あの装束の文様はうちだけのものですね。あの文様は装束屋さんで型止めしています。

志村:そういうこともあるんですか。

金剛:そういう流儀の名物文様みたいなものは、装束の専門の業者さんとこで型止めするんですよ。どこの流派でもやっていますけども、そういう流派の専用文様といいますかね。この間ご覧いただいた、竜女の役などに使う紫の蓮の花の描かれた舞衣は流儀の名物なんです。

志村:今、うちでも竜女用に装束を制作しつつあるんですけど、やっぱりこの間見せていただいたあの装束がインスピレーションの元になって、新しい装束を作れているんで。すごく考えられていますね、装束の文様といい、色といい……。あれは明治期とおっしゃってましたかね。

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金剛:そうですね。前にご覧いただいたのは、恐らく制作は明治だと思いますね。能装束の技術というのはだんだん失われてきているものも多くて、昔と同じものができなくなってきているんですよね。もともとの蚕からして違うという話もよく聞きますけど、現代ではあれだけの手間をかけられないというのもあると思うんですよね。本当に刺繍一つとかにとってもものすごく細かいんで、古い装束は、ああいった技術を後世に残していくというのは、今の時代の能楽関係者の一つ、大事な仕事かなと思うんですよね。

志村:そういう意味では、能という芸能ができてから700年とか、750年とかいいますけど、かつてないほどの変革期っていうか、今後の能の在り方っていうのは、コロナもあるんでしょうけど、議論があるところなんでしょうね。

金剛:しかし、私はある種、変化というものは当然あるものだと思いますので、長いスパンで能楽の歴史を見ますと、そういう時代というのは必ずある程度あったんですよね。

金剛:能楽界でも非常に大きな危機があったといわれるのは、まず、応仁の乱。それと、明治維新というのは非常に大きな危機だったといわれています。こういう時代には本当に大きな変革があって、またそのたびに新しいいいものが生まれたんですよね。そういう歴史を考えれば、今回のコロナに関しても、能はこのコロナ禍を乗り越えられると思っていますし、その乗り越える中でまた新しい何か大事なものが生まれるような、そういう気もするんですけれどね。

志村:この『沖宮』も一つの新作能っていうジャンルに入りますが、江戸期っていうのはある種、新作能を作るというよりかは決められた曲を深めていくって方向だったと思うんですけど、明治期に入ってまたいろいろ新しい能が出てきました。この新作能というのは、現代の能楽師の皆さんやってみたいと思われているもんなんですかね。

金剛:やってみたいかどうかというのは、人によるんじゃないでしょうかね。役者によると思うんですけれども。ただ、新作能とかをやるということは、新しい曲・バリエーションを生み出すというのも大きい事なんですけども、意外と古典の演目を見つめ直す機会になるということはよくありました。

金剛:新作能であったり、昔の能を復活するような、復曲能というのは、例えば、なぜ古典のこの曲は演出的に優れているのかとか、この曲が今まで残ってきた理由とか、逆になくなった理由というのがよくわかったりして、そういう昔の演目を見つめ直す機会にもなったりして、いろんな気づきがありますね。もちろん制作の過程で、曲を作るうえで、新しい、面白いものが見つかることも多いので、そういったものを発見するのもわれわれ役者の楽しみですね。

志村:いわゆるクリエイティブっていう言葉があるじゃないですか。現代におけるクリエイティブというのは、今までになかったものを作り出すことというか、今のクリエーションっていわれていますが、能の中でのそういう創造的な働きっていうのは、必ずしも新しいものを作ることでもないんじゃないかなと思うんですけど、かといって単なる繰り返しでもないですよね、同じことやっていても。

金剛:我々は定められた型の中で能を舞うわけですが、模倣という言葉はあまり使いたくないですね。同じ演目を継承していく中にも、それぞれの創意であったり、工夫というのは必要だと思うんです。

金剛:やはり私の父とか祖父とか曽祖父とか、みんな、それぞれ少しずつ能が違いまして、そこには各個人の工夫であったりとかそういうものがあって、それがすべてちゃんと書きつけというかたちで残ってきています。そういった気持ちを失って単なる古典の模倣に成り下がると、能というものは続いていけないんじゃないかなと思います。変わり続けるということをあまり恐れてはいけないのかなとは思うんですよね。

志村:そういう意味では、前も龍謹さんがおっしゃっていましたけど、型の組み合わせで一つの曲ができるとしたときに、型の不自由さもあるんだけれど、その中での創造性もあると。この両方あるって面白いですね。

金剛:そうですね。われわれは、まず古くから伝わる型というものに守られていますので、これが強みですよね。その中から、また新しい工夫ができるというね。

志村:そうですね。ちなみに『沖宮』で使われている型っていうのは、非常に基本的な型の組み合わせになってるわけですか。

金剛:そうですね。基本的には古典の曲の中で出てくる型の組み合わせでできていますので、相当オーソドックスな舞いの流れになってますね。なので、オーソドックスな流れの中にあるからこそ、原作の持つ意味合いとか、そういうものが浮かび上がってくるのかなと思うんですけれどもね。

志村:そろそろ時間になってきましたけど、前半の、『沖宮』の中のもともとの原作の時間の流れがあるじゃないですか。お能にはいなかった登場人物の「おもか」*とかが最初に出てきて、ずっと現代劇的に時間が流れていって「四郎」が出てきてっていうふうになりますけど、お能の場合はそういう時間の流れっていうことを表現する芸能ではないんですね。

志村:お能ではある種の無時間性っていうか、場面を切り取ってきたような感じがしますけど、その辺の、『沖宮』の原作の時間の流れ、現代劇的なプロットがずっと続いていくっていう話をお能的にしようと思ったときに、だいぶいろいろ手を加えないといけなかったと思うんですけど、そのあたりの原作とお能の特徴っていうのはどんな関係だと思われます?

*おもか:『沖宮』原作の登場人物。天草四郎の乳母であり、あやの母。劇中では亡霊として登場する。

金剛:原作を読ませていただいたときに、そのままのかたちで能にするという可能性もあったんですけれども、ただ、それだと能という演劇のかたちを取る必要がないんじゃないかなという気もしたんですよね。こういった構成であれば、能よりももう少し得意なほかの芸能とか演劇があるんじゃないかなと思いまして、やはり能ならではの、今おっしゃった時間軸であったりとかというのを生かした構成に組み直したほうがいいんじゃないかなという気がいたしましたので、いろんな人たち、研究者の方たちと相談の中でこういう構成にさせてもらったわけです。

金剛:今おっしゃった、能というのは演目によっては時間という概念が消失するような構成になっているような曲もありますので、そういったところは能の面白いところで、よくできているところだなという風に思います。

(了)

「新作能『沖宮』をめぐって -金剛龍謹 × 志村昌司 対談レポート」は以上となります。ご愛読ありがとうございました。
2021年6月12日(土) 新作能『沖宮』 オンライン視聴権販売のお知らせ
2021年3月31日まで募集しておりました『沖宮』再公演に向けたクラウドファンディングは、みなさまの温かいご支援により無事に達成することができました。
公演の観賞チケットならびにオンライン視聴チケットは、当初クラウドファンディングのリターンとしてのみご用意しておりましたが、プロジェクト終了後に多くの方々から「ぜひ沖宮をみたい」とのお声をいただき、検討の結果、オンライン視聴権の販売のみ継続させていただくことになりました。
当日のライブ配信ならびに後日のアーカイブ配信をご覧いただけるチケットとなっております。この機会にぜひご覧ください。
*クラウドファンディングとオンライン視聴権の詳細はこちら
https://the-kyoto.en-jine.com/projects/okinomiya2021
*オンライン視聴権のお申込みはこちら
http://ptix.at/7wimwW

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