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全身で「考える」。ホモ・サピエンスとしての自覚

私は、考えごとが好き。

「考える」っていうとき
実際、私たちは何をしてるんだろう。

私にとって、「考える」というのは、イメージと体感のやりとりだ。

私の頭の中は、だいたい図式になっている。
考える時は、頭の中で映像が動いて、
そのイメージが快か不快かで、Yes/Noを判断する。
身体の状態によって、頭の中に浮かぶものも変わってくる。
身体と脳のキャッチボール。

それを外界に出そうとするときになってはじめて、言葉をあてはめる。
その時も、イメージに近い言葉をわーっと頭に思い浮かべて、体感と一致するものを選ぶ。
言葉という道具の限界による制限がかかるし、もともと話すのも苦手な方なので、言語化にはとてもエネルギーを使う。
…もっと軽くやりたい。

けど、どうやら左脳が発達しすぎると
言葉だけでものを考えるようになるらしい。
その対話の相手は記憶や知識、誰が言ってたこと、つまり過去のデータだ。
今の自身の体感ではなく。
頭の中だけでのやりとり。
身体は置いてけぼり。

( だから、言葉と本心が一致しないんだ。
だから、辛くなって、思考の声を悪者にするんだ。)

SNSや動画など、画面を見ている時の体感も同じだよね。だいたい、頭しか働いていない。
画面を閉じると、ふわっと身体の存在が戻ってくる。
毎日長時間見ている場合には、たぶん画面を閉じてても頭ばっかり働いてる状態になっていると思う。だから体感に気づけなくなる。
( 動画やSNSと、読書の決定的な違いは、どちらがペースの主導権を握っているか、です。ゲームは種類に寄る。)

一言で「考える」と言っても、やっていることは、どうやらそれぞれ違うみたい。

クリエイティブに、愉しく、全身で考え続けていきたいよね。

私たちはこの惑星に身体を持って生きるホモ・サピエンスだからね。
本能だけでも、感覚だけでも、思考だけでも、生き物として半端な気がするよ。

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