photo essay

画像1 写真に写す風景は日常生活とはかけ離れていたり、もしくは著しく生活を写し出していたりして、今の世の中で、これらを共有していく事には困難性を孕む。
画像2 生活とかけ離れた非日常の断片は想い出としてすら完全ではなく、美しいモノに触れた非日常はある種の嘘臭さと共に僕の感性の奥底へ仕舞い込まれていく。
画像3 日常の中に芸術はないように思えるが、芸術の中には人間があり、とするならば、やはり日常の中にも芸術はあるのだろう、と矛盾を帯びた自問自答を繰り返しながら世俗に塗れた生活の中に居る。
画像4 僕は芸術家ではないが、世間一般ではアーティストと呼ばれるかも知れない。時に音楽や絵を嗜み、写真を撮ったりする。今は個人的にはクリエイターと呼ばれている職業ならしっくりくるのかも知れない。個人的には創造職という言い方が好きだ。
画像5 何かを作り出すという事は、外側に自分を刻み込む事であり、その刻まれた自分の分身は自分がまだ出会った事のない人と勝手に出会う。そして僕の事を知らない誰かと勝手に交流している。
画像6 モノを作るという事は範囲も時間も無視して僕を勝手に拡張する。時には全く広がらず、実物の僕より小さく纏まって消えていく事もある。
画像7 しかし、僕達は何千年もの昔に誰かが作ったモノを見る事も出来る。その誰かはもしかしたらアーティストとしてではなく、ただの労働者であったかも知れず、日々の生活の糧として、それを作ったに過ぎないかも知れない。
画像8 実際にはきっと、僕達が目にする創造物は芸術であろうが製品であろうが、そこに鑑賞者が何かを感じ取れるのであれば、そんな事はどうだっていいのだ。日々の仕事も、またアートの旗を掲げた何かであっても。
画像9 多くのモノが生まれては失われ、偶然的な幸運によって後世に残ったり、人類の歴史に名を残す名作も多くが跡形もなく消え失せたりしている。
画像10 僕達は今日も何かを考え、実際には何も考えていなかったり、表現されるモノとは関係ない思考と共に作られたりしながら、作ったり失ったりしながら、後世に関係があろうとなかろうと、何かを作り続けていく。

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