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半生をお金の切り口で振り返る

「※このnoteは大河内薫マネリテ戦略室の企画応募記事です(https://note.com/monelite/n/n6c872adb7463 ) 」

最初に

これまでの人生で私はお金というものに散々振り回されて来ました。

分からないが故に振り回され、支配されてきたお金というものを知ろうと、税務署での確定申告のアルバイトを専業主婦から社会復帰する際の足掛かりとして選択しました。

そこで、驚愕するほどの日本人のマネーリテラシーの低さに触れ、もっと学びたい、そして、身近な人の困りごとは助けてあげたいと思うようになりました。

現在は、無資格から税理士を目指し、会計事務所で税理士の先生の元、学びながら働かせて貰っています。

青年期、お金が無いことで失った経験があります。逆に望むと望まざるとに関わらず、得た経験があります。

失った経験は、主に大学生活です。得た経験は、一部ではありますが下記に綴らせて頂きました。

私の多くを形成する物ですが、思い返すと切なくなり、また、筆舌に尽くしがたいエピソードも含まれるため、リアルで語ることはあまりしておらず、そのほんの一部が、零れ出る程度です。


現在私は結婚しており、娘が2人おります。

大黒柱は夫ですが、コロナ禍を経て、子育てや年金以外の老後資金を得る為に、いくつかの収入の柱を持つ必要性を更に実感しています。

税理士資格を得ることで、私はその柱の一つとなりたい。

終身雇用が崩壊して久しい今、そう遠くない未来に夫が職業の再選択を迫られるシーンが必ず来ます。その時に、私も家族を支えていれば、夫は自由度の有る選択が出来ると思います。実を言うと、価値観の相違ゆえ摩擦もありますが、発想力豊かな夫に、私の仕事のパートナーになって欲しいという希望も抱いています。

後半は有料記事となりますが、前半だけでもお読み頂き、ご感想賜りますと幸いです。

人生最初のお金の躓き

それは、高校3年生の時でした。その前の年に家業の倒産と同時に親が離婚した影響で、母親から「大学に行かせるお金が無い」と告げられました。

高2の時点で、私立大学の文系学部を目指すよう絞り込んで勉強していましたが、そこから一念発起して地元の国立大学を目指しても良かったのにな、と今となれば思います。

県下でも有数の進学校に通っていたので、進学出来ないのに受験勉強を続ける日々は精神を蝕み、やがて登校しようと思うだけで腹痛がするようになりました。胃カメラを飲み、出血性胃炎と診断されました。

上京への決意

私の父は農家の長男でしたが、祖父と折り合いが悪く、跡を継ぐことに反発し、今で言う「セレショ」を営んでいました。

バブルの華やかなりし時代には、JAZZバーも営んでいましたし、交友関係は派手で、タキシードでビシッと決めて、母以外の女性を伴ってパーティに出掛けていく様を見送った事もあります。

母は大きな商家の出身で、家を切り盛りする祖母に代わって乳母に育てられ、家族関係が希薄な家庭で育った人でした。

その母に、夫婦関係の愚痴のゴミ箱のようにされて育った私は、自分だけでも母の期待に応えたいと熱望し、母の希望する高校に入学しましたが、現役での進学を断念してアルバイトをしながら母の仕事の手伝いをしていました、

ですが、そこは田舎故、両親の離婚や家業の倒産、果ては「何で○○高校出身とけアルバイトばしよると?」などど、口さがなく言われることに耐え切れなくなって行きました。

上京後の極貧生活

上京を決意してからの私は、一日13.5時間働きました。足の指が、靴の形に四角く変型しても働きました。お金にまつわる母の愚痴からも解放されたくて、環境を変えたいと切望していました。

高校から推薦を貰って、高田馬場にある専門学校に進学する事になりましたが、上京してからも、極貧アルバイト生活は変わりませんでした。

何が一番安くお腹が一杯になるのかをずっと考えていました。百均でお餅ときな粉を買って、砂糖を沢山混ぜて、お腹を膨らませました。ご飯にふえるわかめちゃんを混ぜて雑炊を作り、めんつゆで味付けして食べました。

肉や野菜や果物は高くて殆ど食べられませんでした。

就職の失敗で更なる極貧へと陥る

本来の目的を見失うほどアルバイトに明け暮れていた私ですが、専門学校では成績優秀者だったので、学校の紹介でその昔、一世を風靡したタレントさんが所属する、とある芸能事務所に就職しました。

「現場マネージャー」所謂付き人としてです。

就職してから知りましたが、社長はそのタレント自身で、そこでの法律は日本国憲法でも労働基準法でもなく、そのタレント自身でした。

華やかな世界を垣間見せては貰いましたが、社長の機嫌に振り回され、香水の匂いがしただけで極度の緊張に見舞われるほど常に気を遣い、同僚が居ない孤独感と、時折り出るようになった暴力、日常的な言葉の暴力に私は判断力を失っていきます。

終電を逃し、タレントの事務所兼自宅への泊まり込みもざらにあり、始発でシャワーを浴びに帰る。

残業代は無く、給料は込みの16万。アルバイト掛け持ち生活に疲れていたので、一つの仕事に専念出来て、それだけのお給料を貰えるのなら、思ったのですが、実際の手取りは14,4000円。源泉徴収というものに初めて触れた瞬間です。

そこから家賃や携帯代、健康保険料等を支払うと、手元には殆ど残りませんでした。翌年には奨学金の返済も始まる予定です。

そんな中、決定的な出来事が起こり、私は事務所を辞めました。

私のとある失敗をきっかけに、ブーツで顔を足蹴にされ、「片親だから、まともに育っていない」と罵られたのが理由です。

短期間で再起を図る為の選択

円満退社では無かったので、最後のお給料は出ませんでした。

私はたちまち生活に行き詰まり、遂に所持金が千円を切った時に、生きて行く為に、ひとまず日給が貰える仕事をしよう、と決意します。所謂夜のお仕事です。

新宿や池袋は怖く、銀座や六本木は敷居が高い。生活を立て直すまで、とにかくひっそりとお仕事をしたい。私が選択したのは、銀座に本店のある昭和6年創業の老舗のキャバレー、その巣鴨支店でした。

おさわり禁止、ノルマ無し、なるべく大きくて古めかしいお店を選んだ事が功を奏して、運営体系がしっかりしており、初めての水商売は想像より遥かに健全でした。ここで私は数ヶ月勤め、再起に成功します。

気付けば、高校を卒業してからの私は、貧困と苦悩と選択の連続でした。

人に弱みを見せたくなかったし、共感を得るつもりも無かった。県立の進学校を卒業し、本来なら敷かれていた大卒からのホワイトカラーの道へ戻る人生を諦めてはいませんでした。

ですが、ひとりで生きていくことに若干疲れてきた私は、とある男性に出会うのです。

モラハラと経済DVに塗れた5年間

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