部下と上司とエトセトラ⑧
あくまでバレンタインのお話
>バレンタインのお返しは用意してあるので、いつでもOKです。
ある年のバレンタイン当日の朝、最上からのメッセージを見た芳香は、思わず冷や汗をかいた。
(……まだ買ってない)
新入社員だった1年目を除いて、バレンタインは毎年プレゼント交換も同然だった。
例年は、節分が終わると本腰を入れて百貨店の催事に足を運んでいたが、今回はどうしたわけか、全く失念していた。と言うのも、最上と全くスケジュールが合わないため、後回しにしていたのだ。
>バレンタインを貰う前提なんですね。
>(´・ω・`)?
正直に「買っていない」と言うのは気が引けて、だからと言って、端から芳香がバレンタインを用意している前提なのも腹が立った。案の定、最上からはとぼけた絵文字が返ってきた。
バレンタイン当日であるから、仕事帰りに寄ってもまだ間に合うが、デパートの催事コーナーほど当日混む場所もないわけで、芳香は瞬時に馴染みの店で買うことを決めた。
いつかの、プレゼントの【意味】を考えると、些か躊躇われるものの、要は貰う側が気にするかどうかだと思い直す。
2週間後、休みでこそないものの、仕事帰りに落ち合った。
ショップのロゴが印字されている、黒のシックな紙袋を渡すと、最上は中をチラッと覗いて笑った。
「マカロンじゃない可能性もありますよ。マカロンですけどね」
「結局はマカロンなんじゃん」
芳香に聞こえるか聞こえないかの声で、最上が小さく「マカロンね」と呟く。
その呟きは芳香の耳にも届いていたが、あえて聞こえないフリをした。
(意味を分かってるな、この人……)
贈り物としてのマカロンの意味は、【あなたは特別な人】。
ある年のバレンタインのこと。
最早【プレゼント交換】の単語にはツッコむつもりはないし、気にもしない。お互いのスケジュールの兼ね合いで、むしろ交換にした方が一石二鳥だと知っているから。
(ホワイトデーにバレンタインほどの神聖な意味合いなんてないし……)
少しして、悲しみにくれた熊のスタンプが送られてきた。
ここまで毎年恒例になると、まだチョコを買っていないことに罪悪感も後ろめたさも、芳香にはない。買う予定はあるのだ。
明くる日、仕事帰りに最寄りの駅ビルに立ち寄った。
職場にはチョコのアソートとは別に煎餅の詰め合わせを買う。甘いものが苦手な人向けに、新入社員の頃から2つ用意する習慣がついていた。
家族には北海道の有名なチーズケーキをオンラインショップで注文した。この時期はどこもチョコレートに力を入れているから、敢えてそこを外したチョイスである。
職場用の差し入れを購入すると、いよいよ最上へ渡すものを探し始める。最初こそ有名なショコラトリーを見て回っていたが、途中で思い直した。
(どうせアルバイトさん辺りから、チョコの差し入れありそうだし、チョコじゃない方がいいな)
義姉が最上にもチョコを買っていたのを思い出し、人だかりのできている催事場に踵を返した矢先、あるものが目に入って足を止めた。
茶請けに合いそうな干菓子の老舗菓子店。
何とも彩り豊かで、芳香は思わずガラスケースに近づいた。
(そう言えば、金平糖は贈り物にいいって聞いた覚えがあるな……)
春めいた菓子に加え、梅の花を模したパッケージと、その中に収まった和柄の缶。
花が好きな最上に合いそうだった。
さして深く考えもせず、芳香はその梅の包みを手に取ると店員に手渡した。
その帰り、帰宅ラッシュで鮨詰の電車に揺られながら、芳香は何の気なしに検索サイトで金平糖について調べてみた。
同じ缶の中には、和三盆のクッキーも入っていた。贈り物におけるクッキーの意味は【友達でいよう】。
「これで相殺だ」と誤魔化してみても、まるで説得力はない。
生憎と前例があるから、芳香は思わず顔をしかめた。最上の意味ありげな含み笑いが想像できて、何とも腹立たしかった。
(……本命はクッキーということにしておこう。金平糖は次いでで)
我ながら無理のある言い訳に、芳香の表情はむしろ楽しげだった。
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